【戦国武将紹介】黒田官兵衛について

 兄に変わって弟が更新します。
 今回、黒田官兵衛という武将について紹介します。
 黒田官兵衛は1546年、播磨国で黒田職隆の嫡男として産まれました。幼名は万吉で、本名は孝高といい、洗礼名は「ドン・シメオン」とも言います。
 竹中半兵衛とともに秀吉の側近として活躍し、秀吉死後は家康に仕えて筑前の領土を得ました。息子の長政に家督を譲った後は出家し,「如水」と名乗りました。
 さて、黒田官兵衛のエピソードはどんなものか紹介させていただきます。
・「シメオン如水」と彫った印というものがありますが、これは洗礼名と法名を並べたわけです。こういうかがわしい印を平気で作るところもうかがえるように彼の素性はハッキリしていません。
・父・重隆は目薬売り、金貸しの仕事もしていたそうです。
・死の直前、「関ヶ原の戦いで、家康公と三成の争いが100日続けば攻め上がって天下を取っていただけただろう」と長政に語っていました。


 追記
 ・有岡城の戦いの際、荒木村重を説得するために伊丹城に乗り込みましたが、村重に捕らえられて太陽が当たらないほど暗い牢獄に閉じこめらてしまいます。この時体を動かすことができず、足は不自由になり、片目を失明してしまいます。しかし牢獄には窓があり、そこから見えたのは藤の花でした。それだけが牢獄時代の心の支えとなったと言います。後に救出され、牢獄の窓から見た藤の花を家紋とし、それを人生の教訓にしました。
 ・関ヶ原の戦いの際、黒田家は東軍に付きましたが、官兵衛には九州統一や家康殺害といった野心的なことを持っていました。しかし、関ヶ原の戦いはわずか1日で終わった(東軍の勝因は小早川秀秋らの裏切りですが、それを交渉していたのは官兵衛の息子の長政でした)ため、その野心は夢に消えてしまいました。

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