ペルシア戦争

ギリシア世界とヘレニズム世界
第1回ペルシア戦争
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ペルシア戦争の序章

ギリシア人が西で、
エトルリア人やケルト人と接触していた頃に
アケメネス朝ペルシアリディア王国を滅ぼし
小アジアイオニア諸都市を支配しました。

だんだんとギリシアにとって、
アケメネス朝ペルシアが恐るべき脅威になっていったのです。
その後、
アケメネス朝ペルシアは都市に僭主政をもたせようと圧力をかけるも、
ギリシア反発し、僭主アリスタゴラスの主導のもと反乱
アテネの協力もあり、すぐに鎮圧された。

アテネが援軍を送っていたため、また商業敵だったため、
またギリシアの歴史家ヘロドトスが、
ペルシア司令官マルドニオスの言葉を引用して、

ヨーロッパはあらゆる種類の植物が植えられ、土地が大層肥沃で美しい地方だから、ここを所有するのにふさわしいのは、すべての人のうちで(ペルシアの)王だけだ。

と伝えている。

※ヘロドトスは最初にヨーロッパの文字を使った歴史家

第1回ペルシア戦争

ペルシアダレイオス1世がギリシア侵攻へ
第1回ペルシア戦争(前494年)が開始される。

ペルシアに支配されたミレトスが蜂起するも、
鎮圧され、都市は破壊された。

市民は虐殺されるか、バビロンに連行されました。

第2回ペルシア戦争

第2回ペルシア戦争(前490年)はミレトスを援助するため、
ギリシアが艦隊を送ったことが引き金となりました。

ペルシア軍10,000人~15,000人は、
トラキア・マケドニアを征服します。

マラトンの戦い

アテネはマラトンミルティアデスを指揮官とし、
ファランクス陣形の約10,000人の重装歩兵でペルシア軍を倒す。
これがマラトンの戦いです。

第3回ペルシア戦争

第2回ペルシア戦争の後、
10年もの間ペルシアは対ギリシア戦へむけて準備しました。

前480年ヘレスポントス海峡(ダーダネルス海峡)からペルシア軍が侵入し、
北部のギリシア国家はペルシアに次々と服従していきます。

アテネとスパルタは同盟条約を結び、
陸軍の指導権はスパルタに任せられ、
海軍の指導権はアテネに委ねられました。

アルテミシオンの戦い、テルモピレ-の戦い

winペルシア(クセルクセス1世)  vs  Loseスパルタ(レオニダス王)
約20万の歩兵   vs   スパルタ兵 テオニダス兵(計・約300人)

レオニダス王以下全滅戦死。
しかし、アテネ軍の時間稼ぎには丁度良かったのでした。

サラミスの海戦

アテネ軍はテミストクレスのもと、ピレウス港を整備します。
アテネ軍はサラミス湾に敵を誘い込んで、三段櫂船で勝利。

多くの場合勝負を左右するのは軍の士気です。
祖国を救いたいギリシア人の団結の勝利でした。

テミストクレスはのちに陶片追放されます。

プラタイアの戦い

アテネ・スパルタ連合軍はペルシアに完勝し、
ここで勝利を確定します。ヨーロッパの自由は守られました。
イオニア諸都市は独立。

ペルシア戦争のその後

デロス同盟の結成

前478年、アテネのアリスティディスが中心となり
対ペルシア同盟としてデロス同盟を結成します。
デロス同盟の名前の由来はデロス島のアポロン神殿を中心に結成したことによる

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