ミャンマー(ビルマ)

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1世紀頃

イラワディ川(エーヤワディー川)中流域にはチベット=ミャンマー語族のピュー人(驃人/ひょうじん)(テュルチュルと自称)
都市国家を作っており、南部にはモン人が住んでいた。

ピュー人

プローム地方を中心に生活していた。ビルマで最初のインド文明の影響を受けた遺跡はシュリークシェートラ遺跡で、証拠に仏典の破片が見つかった。中国の僧侶・玄奘と義浄は子の都市国家を「室利差(察)咀羅」と記録していた。

ピュー人の消滅

そこそこ発展していたピュー人の国は中国雲南地方に興った南詔国から攻撃を受け、832年に首都が焼き払われてしまった。住人3000人が捕虜として今の昆明へと強制移住させられた。その後、ピュー人の行方はわかっていない。

ミャンマー人(ビルマ人)南詔に服属していたが、
南下していって、ピュー人やモン人を追い出したり、吸収したりした。

空白

9世紀後半からパガン朝のアノーヤター王登場までの200年間のことがわかっていない。

パガン朝

ビルマ人の流入

南詔国の攻撃によるピュー人の国家消滅の際にはイラワディ川上流に進出していたようだ。そして徐々にチャウセー地方に定住していったようである。ビルマ人はモン人を追い払いながら北部と西部の両方に勢力を伸ばした。モン人との接触からインド文化を学びビルマ文字をこの王朝は使用した。

カヤイン

ビルマ人はカヤインと呼ばれる集団居住村(地方国)を作り、その中心部には城壁に囲まれた町があった。チャウセー地方には11のカヤインがあった。カヤインを基本にその定住スペースを増やしていったと言われる。ちなみにミンブー地方には6ヶ所のカヤインが作られた。

アノーヤター王とパガン朝

11世紀半ばに最初のミャンマー統一王朝パガン朝をアノーヤター(アノーラタ)王が建てた。都はパガン。パガンはピュー人の都市という意味で、ピュー・ガーマが転じたものと言われる。パガンの王に過ぎなかったアノーヤターは多くのカヤインを統合して、モン人の都市パガン朝の地位を揺るぎないものとした。

アノーヤターの政策

  • 農業発展のための灌漑改良工事
  • モン人の高僧・シン・アラハンのススメで上座部仏教を導入
  • 1057年タトゥン制圧。海外との窓が開く。仏教が発展。

パガン朝の最盛期

チャンシッター王

第3代チャンシッター王の時最盛期を迎える。ビルマ寺院最高傑作であるアーナンダ寺院を建立。しかし、王自身はヒンドゥー教に傾倒していったようである。この時代は大乗仏教とヒンドゥー教とそれに上座部仏教が共存した。

アラウンシードゥー王

敬虔な仏教徒。1131年にシュエグ―ジイ寺院とタッピンニュ寺院を建立。この時代からモン人の文化が薄れ始めた。

パガン朝の滅亡

最後の王ナラティハバテは「仏寺成って国滅ぶ」と民衆から言われた王。
13世紀後半パガン朝は元朝が当時、雲南地方をを併合し、4回に渡り、朝貢と臣従を求めてきたが、王は拒絶。そのため1287年クビライ・ハンの遠征を招き、その侵攻受けて滅亡した。その後、も統治を許されたが・・・。

滅亡のその後

タイ系のシャン人がパガン朝滅亡後影響力を強く持ち、
ミャンマー北部のピンヤとアヴァに王国を建て
南部のペグー(バグ―/白鳥の町)を拠点とするモン人と争った。

16世紀ミャンマー人(トゥングー朝)によって滅ぼされた。

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