ベトナム北部の古代史

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ベトナム先史時代

畑作文明に生まれた黄河文明に対して、
長江流域の稲作地帯には越人が住んでいた。

越人は呉・越・楚などの国を建国し、
南下して青銅器〜鉄器文化を北ベトナムに伝えた

青銅の太鼓の銅鼓(どうこ)を代表とするこの文化は
遺跡の名をとってドンソン文化と呼ぶ。

この文化を作ったのはベトナムと言われる。
青銅の鐘の銅鐸で有名な日本の弥生文化とよく似ている。

中国統治下時代

始皇帝の時代

秦の始皇帝はベトナム北部に進出し、
南海三郡(南海、桂林、象・しょう)を設置した。

南越と漢

秦国の軍人・趙佗(ちょうだ)
秦末の混乱に乗じて南越(なんえつ)を建国したが
前漢の武帝に滅ぼされた。
武帝は南海九郡(交趾・こうし、日南・にちなん、九真など)設置。

166年日南郡に
ローマ帝国の大秦王安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が
手土産をもってやってきた。

徴姉妹の反乱

後漢の光武帝時代に
徴側と徴弐の姉妹による徴(ちゅん)姉妹の反乱が紀元後40年に起きたが、
後漢の将軍馬援によって鎮圧された。

唐の時代

7世紀唐代にはハノイ安南都護府が設置。
8世紀阿倍仲麻呂都護(節度使)として赴任。

860年代、南詔国軍が安南都護府を占拠。

ベトナムの独立と短命王朝

概説

五代十国時代ベトナムは独立をついに成し遂げ、
呉、丁、黎と王朝が次々替わっていった。

詳細

土豪の呉権(ゴークエン)が
北方民族の遼や金に気を取られた
中国軍を打ち負かし独立を達成。

呉権(在位939~944)、
丁部領(ディンブリン)(在位968~979),
黎桓(レーホアン)(在位980~1005年)と短期間の王朝が続いた。

北宋の侵入を受けたり、大変ではあった。

李朝大越

建国と繁栄

1009年、黎朝の部将、李公蘊(リーコンウァン・太祖)
李朝を創始して、都をタンロン(昇竜、現ハノイ)に置いた。

タンロンはその後、約800年首都としてあり続ける。
ベトナム初の長期安定政権である。

とはいえ、地方では半独立的勢力が残っており、
弱い中央支配にとどまった。

1075年科挙開始。第三代聖宗が国号を大越(ダーイヴィエット)と定めた。
この国号は1804年まで続く。

李朝は宋の1075年の攻撃を退け、1044年と1069年チャンパーを攻め、多くのチャム人を捕虜とした。1174年に南宋から安南国王の称号が与えられた。

大乗仏教や儒教を保護し、1044年延祐寺(一柱寺)がその中でも一番有名。

反乱と滅亡

李英宗のときに、
地方で役人が横暴を働き、
さらに李朝は重税を課し、
また自然災害に襲われ、
大反乱がおこった。

李朝はこれらの動乱を収束できなくなり、
実権をもつ陳(チャン)氏に政権譲渡した。

陳朝大越

1226年、陳朝が成立。

チャン=フンダオの活躍で三度に渡るモンゴル軍の侵入を撃退した。
漢字をもとにして、ベトナム独自の民族文字チュノム(字喃)(現在あまり使われていない)を作成。引き続き、チャンパーを攻めた。

元軍の侵攻

フビライは南宋包囲作戦の一環として
大理・パガン朝・陳朝ヴェトナムに侵攻。

陳朝は首都ハノイを陥落されたあとも、ジャングルで抵抗を続け、モンゴル軍を撃退した。

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