後漢

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光武帝の時代

後漢の建国

漢一族で武帝の弟のしそんである劉秀(りゅうしゅう)赤眉の乱(せきびのらん)を平定し、
25年後漢(こうかん)を成立させた。漢帝国の復活である。
光武帝(こうぶてい)は200年の安定の基礎を築いた。
戦乱で荒廃した長安ではなく、河南省の洛陽に都を置く。
後漢は豪族連合だったため、皇帝の力は弱かった。

「徴姉妹の反乱」の鎮圧

光武帝は42~43年のベトナムで起きた徴姉妹の反乱(ちゅんしまいのー)を鎮圧する。

「漢倭奴国王」の授与

そして、57年倭国の使者に光武帝が金印(漢委奴国王印/かんのわのなのこくおういん)を授けた。これが歴史上確認できる最初の倭人の朝貢である。奴国の王が光武帝に使者を奥地、奴隷などを献上した。この金印は江戸時代に福岡県の博多で発見されることとなる。

和帝の時代

班超と西域都護

西域都護(さいいきとご)に任命された班超(はんちょう)は匈奴(きょうど)を討って、漢に対して、カスピ海以東の50あまりのオアシス都市国家が、服属した。

西域都護

前漢の宣帝(前59年)のとき、匈奴の降伏を機に、西域統治機関として亀茲(きじ)に設置されていた役職。タリム盆地を防衛する軍事司令官。

甘英の西域視察

西アジアではパルティア王国の最盛期でローマと抗争を繰り広げていた。インドではクシャーナ朝(大月氏)が、南インドのクシャーナ朝と対立をしていた。
班超は
部下の甘英(かんえい)大秦国(ローマ帝国)に派遣したが条支国(シリア)で漢帝国とローマが同盟を恐れたパルティアの商人に渡航困難と騙され、帰国した。

2世紀の後漢の減衰

幼帝が続き、外戚(がいせき)や宦官(かんがん)が実権を握るようになる。

大秦王安敦の使節?が来港

166年、大秦王安敦(だいしんおうあんとん/ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス)を名乗る使節が後漢の日南郡に到着した。東南アジアやインドの産物である象牙(ぞうげ)やウミガメの甲羅を持ってきたためこの使者は偽物だろうということで、後漢書(ごかんじょ)にも書かれている。ローマ側の文献にも後漢に使者を送ったという記録は残っていない。

党錮の禁

166年、169年、党錮の禁(とうこのきん)が発生。
宦官に反対する儒教学者や知識人らを弾圧。官僚たちは宦官派と反宦官派に分かれて日夜、派閥抗争(党争)を続けていたが、宦官が反宦官派を追放してしまう。こののちに宦官政府に反対する豪族が挙兵する。

「錮」とは

政府から追放するという意味。

黄巾の乱

184年、太平道という宗教的秘密結社の張角が主導する農民反乱である黄巾の乱が起こる。これは、宦官政府の重税に反発したためである。
農民が黄色の布を巻いていたことから「黄巾の賊」と呼ばれた。この秘密結社は呪文によりどんな病気でも治癒できるとして
人々の支持を得ていたが、当の張角が病死し、急速に衰退。
→後漢は事実上の崩壊をし、群雄割拠の時代へ

後漢の滅亡

220年曹操の子曹丕によって後漢は滅ぼされた。

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