晋(西晋)

の帝室は一族間の争いで勢力を失う。
かわりに勢力をつけたのは、司馬氏だった。
第3代曹芳(そうほう)の時代になると、司馬懿(しばい)が権力を強め、
曹氏一族を追い詰め始める。
第4代曹髦(そうぼう)司馬懿の子である司馬昭によってとうとう傀儡となり、
260年傀儡を嫌った曹髦司馬昭を殺害しようと試みるも
返り討ちされ、殺された。
その後即位したのは第5代曹奐(そうかん)だったが、
この皇帝もまた司馬昭の傀儡だった。
265年司馬昭が死去するも、あとを引き継いだ
魏の将軍司馬炎曹奐から禅譲を強要し、
西晋(晋)を建国。都は洛陽
280年を滅ぼし、中国を統一
司馬炎(武帝)は一族を各地の王とし、
大きな権力(軍事力など)をもたせて、帝室を守ろうとしたが、
かえって皇帝の権力をうしなわさせる結果となった。
武帝の子恵帝のとき、
皇后の賈氏とその一族が汝南王・楚王をつかって実権を握った。
これに対し趙王が賈氏を滅ぼし、
恵帝を退位させた。
それで斉王・成都王・長沙王・河間王(かかんおう)が趙王を討ち、
306年懐帝を東海王が擁立して、実権を握った。
この一連の争いを八王の乱という。
さらに、清談の風(ふう)とよばれる官僚の間では、実際の役には立たない議論ばかりし、
国家の危機的状況をかえりみない風潮がおこった。
八王の乱の主な兵力は、中国内部に住み着いていた
遊牧民であり、晋の支配をひっくり返した。
304年成都王のもと働いていた南匈奴劉淵(りゅうえん)が独立。
308年今の山西省で漢の皇帝を称す。
311年、劉淵の子劉聡(りゅうそう)は都の洛陽を攻め落とし、
晋の懐帝を捕え、
316年、長安の愍帝(びんてい)も捕え
永嘉の乱(311年~316年)西晋を滅ぼした。
晋の一族である江南の軍事司令官だった司馬睿(しばえい)
呉の都だった建康建康と改称し、そこを都に晋(東晋)を復興した。

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