仏教の受容

4世紀初めに西域の亀茲国から仏図澄(ぶっとちょう・ブトチンガ)洛陽に来て、布教を行い
仏寺約900所を建立し、門下生は1万人に及んだ。
5世紀初めに父がインド人で亀茲国出身の僧・鳩摩羅什(くまらじゅう・クマーラジーヴァ)長安に迎えられて、
法華経・阿弥陀経などの仏典の漢訳と教理の中国定着に大きく貢献した。
また、経典収集のために、399年長安からグプタ朝時代のチャンドラグプタ2世時のインドに赴いた
東晋の僧・法顕は行きは内陸アジアを通るルートで、帰りはシンハリ(セイロン)より
山東に帰国し、帰国後にそれらの旅行記「仏国記(法顕伝)」を書いた。
この時代の仏教は貴族層や国家の保護を受け、北朝ではだいたい皇帝の保護を受け繁栄し、
とくに北魏では国家仏教として繁栄した。
逆に皇帝によって弾圧されることもあり、5世紀初め道教を保護した皇帝によって
仏教は弾圧され、廃仏が行われた。
仏寺や寺院もたくさん作られるようになり、
五胡十六国時代には、
甘粛省西端の敦煌には莫高窟などの石窟寺院が造営された。
敦煌は西域への中国側の門戸として重要な役割を果たした。
北魏前半の都・平城の西に位置し、現在の山西省大同の西郊の雲崗(うんこう)では
文成帝5窟の大仏を作らせ、孝文帝洛陽遷都までに40以上グプタ・ガンダーラ様式の石窟寺院が造営された。
494年北魏の遷都後、河南省洛陽の南方の竜門唐の玄宗の時代まで漢化政策純中国風の石窟寺院が造営された。
雲崗とともに中国の2大石窟と言われる。この2つの石窟寺院はいずれも鮮卑人がつくった。

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