安史の乱

天宝年間になると玄宗は政治に飽き、
お気に入りの寵臣ばかり起用し、
玄宗の息子の妃の楊貴妃(ようきひ/体重約70kg)後宮に迎え、溺愛し、
政務を怠り、楊一族を要職につけた。
その後、ソグド系の武将・安禄山(あんろくざん)
玄宗の信任を受け、三節度使を兼任するようになった。
一方朝廷では、楊一族の楊国忠(ようこくちゅう)が宰相として実権を握っており、
安禄山と激しく対立した。
755年安禄山は楊国忠打倒のもと挙兵し、洛陽・長安を陥落させ、
大燕皇帝を自称するようになた。
玄宗は蜀へと落ち延びたが、部下の不満を取り除くため、
楊貴妃に死を命じねばならなかった。
この反乱は子の安慶緒(あんけいちょ)、さらに部下の史思明(ししめい)父子によって
継続されたため安史の乱(755~763)と称され約9年に渡る大乱となった。
ウイグル人の援助などにより鎮圧されたが、王朝の衰退は決定的となった。
また、チベット系の吐蕃安史の乱の時に長安を占領した。

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