長岡京と平安京の確立

平安時代初期
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光仁天皇

即位

770年称徳天皇(女帝)の崩御後、藤原式家の藤原百川(ふじわらのももかわ)らの策略によって、天武天皇系の皇統に代わって、天智天皇の孫である天智天皇系の白壁王(しらかべおう)が即位し、光仁天皇(こうにんてんのう)となった。奈良時代最後の天皇である。僧侶が政界参入するような腐敗した律令制の再建に乗り出す。

僧綱政治の否定

道鏡の追放

称徳天皇に溺愛されていた仏教優先の僧・道鏡770年、下野薬師寺に追放された。

桓武天皇

即位

光仁天皇の皇太子には、天武天皇系の親王である井上内親王とその子他戸親王が立ったが、藤原百川の暗躍により、光仁天皇百済系で位の低い高野新笠(たかののにいがさ)との間に生まれた781年、山部親王(やまべしんのう)が即位し、桓武天皇(かんむてんのう)となった。

政策

桓武天皇は父・光仁天皇の施政方針を受け継ぎ、行財政改革や公民の負担軽減などの政策をとった。さらに新しい王朝の基盤を固め、仏教政治と断絶した。

長岡京

遷都
784年、仏教政治との断絶のため大和国の平城京から、山背国乙訓郡長岡の長岡京に遷都した。
藤原種継暗殺事件
しかし、遷都に反対する勢力もあり、785年、長岡造営の長である造長岡宮使藤原式家藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され事態は一変する。
早良親王の憤死
この暗殺事件を巡って、桓武天皇は自分の息子である安殿親王(あてのみこ/のちの平城天皇)の皇位継承を望んでいたこともあり、桓武天皇の弟の皇太子・早良親王が関与を疑われ、
幽閉され、自ら食を絶ち、憤死する。旧来の豪族である大伴氏や佐伯氏も退けられた。
早良親王の祟り

早良親王の祟り

貴族内対立が表面化したり、桓武天皇の母の高野新笠や、夫人で藤原百川の娘の藤原旅子(―たびこ)や皇后で藤原良継の娘、藤原乙牟漏(―おとむろ)も亡くなったりして、早良親王の祟りや怨霊と言われるようになった。桓武天皇は淡路国の早良親王の御陵付近で殺生禁止にしたが、
天然痘が再び流行し、安殿親王にも病の影が見られたために、桓武天皇は早良親王に崇道天皇と追号した。
怨霊
怨霊とは非業の死を遂げた人の現世に祟りをなすもの。それを鎮魂し、災いを取り除こうとした。863年に平安京の神泉苑(しんせんえん)で早良親王たちを祀った御霊会(ごりょうえ)の始まりである。その後、疫病が流行すると、怨霊を祀られる御霊信仰(ごりょうしんこう)となった。天神信仰(てんじんしんこう)や京都の祇園祭も御霊信仰の一種である。
因みに、日本三大怨霊は平将門、菅原道真、崇徳上皇の3人です。早良親王は入っていません。

平安京遷都

呪われた都・長岡京といわれ、桓武天皇794年和気清麻呂の建議(わけのきよまろー)により山背国葛野郡宇太の地に遷都した。新京は願いを込めて、平安京と名付けられた。平安京遷都により、山背国山城国に改名された。以後、約400年間の国政の中心が平安京にあった時代を平安時代と呼ぶ。

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