本格的蝦夷(エミシ)征討

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東北の混乱

伊治砦麻呂の乱

光仁天皇の時代である780年に夷俘(朝廷に帰属している蝦夷)の首長であり、伊治郡の大領(かみ/長官=郡司)であった伊治呰麻呂(いじのあざまろ/これはるのあざまろ/これはりのあざまろ)は大反乱を起こし、按察使(あぜち/国司の行政の監察する令外官)であった紀広純(きのひろずみ)を殺害し、東北支配の拠点である、多賀城を陥れた。これを伊治砦麻呂の乱または上治郡大領の乱という。
以後30年間東北は戦争状態が続く。
以後、朝廷は大伴家持などを何回も派遣するも蝦夷軍に何度も敗れる。

エミシとエゾ

古代にエミシと呼ばれたのは、東北地方の中央政府に属していない人々を指す。貴族からは異民族視されたが、人種や文化も同じである。中世のエゾと呼んだアイヌの人たちとは異なる。

第一次征討軍

朝廷は、789年,征東大使紀古佐美(きのこさみ)率いる第一次征討軍を東北地方に派遣するも、蝦夷族長・阿弖流為(アテルイ)巣伏(すぶし)の戦いで大敗した。

征夷大使

793年征東大使征夷大使に桓武天皇が改称。

第二次征討軍

朝廷は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使、坂上田村麻呂を副使として大軍の第二次征討軍を送り、初勝利をあげる。

征夷大将軍

794年大伴弟麻呂が初の征夷大将軍に任命される。
(実際に活躍したのは軍神・毘沙門天の化身と言われた田村麻呂)

第三次征討軍

第三次征討軍では田村麻呂が、709年征夷大将軍に任命されており、蝦夷軍にまた勝利し、多賀城の北の北上川中流域胆沢城を築き、802年阿弖流為を投降させた。
(阿弖流為は京都で田村麻呂の助命嘆願虚しく処刑)

鎮守府の相次ぐ移転

鎮守府多賀城から胆沢城(いさわじょう・岩手県奥州市)に移し、804年胆沢城の更に北に、前線基地として志波城(しわじょう・岩手県盛岡市)を築いた。811年嵯峨天皇文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)を征夷将軍として送り、志波城が雫石川の侵食を受けたために、徳丹城(とくたんじょう=現在の岩手県矢巾町やはば・ー)を築いて移った。日本海側は出羽国の米代川(秋田県にある)流域まで支配。

徳政総論

811年、嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)に蝦夷征討を命じて以降。蝦夷討伐は途絶える。
(805年、桓武天皇は徳政総論という議論を裁定し、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)
「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」
という意見を取り入れて、蝦夷征伐平安京造営を打ち切った。)

元慶の乱

878年、秋田城下の俘囚(帰属した蝦夷・夷俘より強く服属)が秋田城司による差別・重税により元慶(げんぎょう)の乱という大規模な乱を起こし、秋田城を焼き討ちにした。雄物川以北を蝦夷の地として要求。
朝廷は、備中国司・藤原保則(ふじわらのやすのり)と鎮守将軍・小野春風(おののはるっかぜ)を派遣し武力外交・対話外交で鎮圧。この乱の鎮圧により、
「津軽より渡島に至るまで、雑種の夷人、前代にいまだかつて帰付せざるもの、皆ことごとく内属す」

と記録れており、エミシは抵抗虚しく、北海道の函館周辺まで日本国民となった

以降、前九年の役まで平和。

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