桓武天皇の政治改革

平安時代初期
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長岡京遷都

長岡京と平安京の確立を参照。

平城京遷都

長岡京と平安京の確立を参照。

健児の制

概要

792年、健児の制(こんでいー)は農民の負担となっていた従来の軍団制を廃止して郡司の子弟や有力農民からの志願を募る制度。農民の負担の軽減化と兵士の質の向上を図ることが目的。任期は60日。国府の警護など国内の警備にあたらせた。

軍団的兵制存続場所

健児制は全国一律で廃止されたわけではなく、存続した地域も存在する。陸奥・出羽・佐渡・北部九州が健児制の例外地域である。九州では選士(せんし)と呼ばれる制度で、兵士を1320人、陸奥の地域では健士(こんし/けんし)と呼ばれる制度で2000人をおいた。

儒教的政策

農民の負担を減らすことによって国家体制を再建させるという農民の負担軽減こそが体制の再建の礎とした儒教的政策のこと。

一紀一班制

一紀一班制(いっきいっぱんー)は班田期間を6年1班から、12年1班に延長。

その他

  • 良民と賤民の間の結婚を認め、生まれてくる子供を良民扱いすることによって、良民の数を確保。
  • 出挙(すいこ)の利息を従来の5割から3割に軽減。
  • 雑徭(ぞうよう)の日数も60日から30日に半減。

勘解由使の設置

令外官(りょうげのかん)である勘解由使(かげゆし)の設置で、国司制度を強化した。国司交代の監督。新任国司から前任国司に与えられる国司在任中に不正を行っていないなど問題がなかった時に送られる証明書の解由状(げゆじょう)の審査もした。これを解由制という。

東北経営

蝦夷征討を参考。

徳政相論

概要

桓武天皇はどうしたらより良い政治を行えるかを考えていたらしく、805年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがののまみち)の2人を討論させた。これを徳政相論(とくせいそうろん)という。

徳政とは

政治的意味では善政。経済的には不債、借金帳消しの意味で使われる。

日本紀略

日本紀略には次のようにある。

方今天下(ほうこんー)の苦しむ所、軍事と造作なり。此の両次を停れば(とどむれば)百姓(ひゃくせい)これに安んぜん。

『日本紀略』

世の中で苦しんでいるのは軍事と造作のせいだ。やめたら安心だねーという文。

軍事とは東北経営を指し、造作とは平安京造営を指す。

藤原緒嗣が軍事と造作を停止する案だし、菅原真道はこれに反対。桓武天皇は藤原緒嗣の意見に賛同して、軍事と造営を停止。軍事は811年から停止。造営は造宮職が解体され、平安京造営は中止となった。

まとめ

これらの改革は、
新都の造営や、蝦夷との戦いという2大政策をやり遂げるために、
人的資源などを投入していたため、みっちり成果を収められなかった。

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