西夏(せいか)

唐末、黄河が曲がるオルドス地方で発生したチベット系民族がタングート族で東西交通の要衝の地である敦煌を押さえて、その利益で強大化した。

初めの頃、太祖(趙匡胤)はオルドス方面に対して、羈縻政策(ゆるくつなぎとめる支配)を行っていたが、982年、オルドスの部族長・李継捧が宋に節度使として入朝し、夏州など4州を宋に献じたことによって、一族である李継遷(りけいせん)がこれに反発して独立。990年、遼に服属して、遼から夏国王の称号を受け、宋と敵対する関係になることを明確にした。さらに宋軍は李継遷の母妻を捕らえると、夏国は宋国内部へ侵入するようになった。次の李徳明和平政策を打ち出し、宋に臣礼をとる一方、歳幣をうけた。次代の李元昊(りげんこう)は礼制と兵制を制度化して、西夏文字も作り、1038年興京府(こうけいふ)(現・銀川(ぎんせん))を都におき、大夏を建国。なお、西夏は宋からの呼称である。

宋は西夏の建国を認めず、宋と西夏の間で戦争が勃発したが、宋は戦況が不利になり、慶暦4年(1044年)その和議がなった。(慶暦の和約)

以下がその内容である。

  1. 西夏は宋に臣礼をとり、夏国の主とする。

  2. 宋は絹15.2万匹、銀7.2万両,茶3万斤を毎年夏に贈ること。

また、宋と西夏の間には、2箇所の官営交易場(榷場/かくじょう)が設置され国境で貿易が行われた。

西夏の支配下には漢人ウイグル人吐蕃族を含み一種の複合国家となっていた。儒教の経典も翻訳され、また仏教も人気があり、仏寺や仏塔も多く作られ、西夏文字で多くの経典を翻訳した。なお西夏文字は表意文字であり、日本の西田龍雄によってほとんど解読された。

反面、タングート族独自の文化を保存することにも力をお入れており、禿髪令(とくはつれい)1033年に、発布された。この令は西夏独特の髪型を徹底的に普及されたものである。

やがて、女真族の金がおこるとそれに服属したが、1227年、モンゴルのチンギス・カンによって李元昊より10代190年の歴史の西夏は滅亡した

 

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