靖康の変と北宋の滅亡

宋の中央集権化
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女真族と金の成立

女真族とは?

女真族はツングース系の民族。別名:女直やジュルチン。

中国東北部の東部にある
松花江の中流域に住む半猟半農の生活で過ごしていた
約200年の間遼に支配されていた。

金の建国

1115年、
指導者の完顔部(ワンガンぶ)の首長である
阿骨打(アグダ)(太祖・位1115~23)が現れ、
女真族の統一を進めた。

1114年寧江州の戦い(ねいこうしゅうのたたかい)
遼に勝利ののち1115年独立。金を建てた。

なぜ、「金」という名前かといえば、
根拠地の松花江の支流では
金がとれたことや、
金の性質から来ている説がある。

交易で力をつけたとみられる。都は会寧府(現、黒竜江省阿城市)に定めた。

風流天子・徽宗

徽宗の即位

1100年、哲宗が死去。

北宋の実質的に最後の皇帝となる徽宗(きそう)が即位。
即位すると、新法を復活させ、新法派の蔡京(さいけい)を宰相として登用。

蔡京は政治改革や、旧法派の弾圧のために
石に300人以上の旧法党員の名前を刻んで
全国に建てさせることなどを行った。

一方、蔡京が宰相だった時代の新法は、
募役法では支払いを怠らせるようになり、
市易法は物価政策へと変わっていった。
王安石の構想とはまるで違うものになってしまった。

徽宗の浪費と花石綱

花石綱(かせきこう)とは、
庭園造営のために江南から
わざわざ珍しい植物や石をはじめとする物資を、
船のスタックを組んで、首都開封に運ぶことである。

蔡京の指示ではじめられ、
徽宗に献じられ、蔡京の懐にも入った。

徽宗たちは民衆のためではなく、
民衆から財を奪うために新法を宮殿造営などに使った。

花石綱のせいで、水門や橋は壊され大運河の流通は滞った。

水滸伝はこの話が元ネタである。

そのあと、方臘の乱が江南で1120年起こる。

遼の滅亡と西遷

花石綱で、江南住民が苦しんでいた頃に金朝が建国。
宋朝は燕雲十六州を取り戻すチャンスとみて、
1120年後に売国奴として罵られることになる趙良嗣(ちょうりょうし)を金に派遣した。

完顔阿骨打との間に、遼を挟撃する約束が取り決められた。
遼を挟撃したあとの分割する地も決まった。

金軍は1122年、遼の中京大定を陥落させ、
遼の天祚帝(てんそてい)を西走させたが、
遅れて出てきた宋の童貫
遼(後の西遼皇帝)の耶律大石(やりつ たいせき)に敗れた。
これを燕山の役という。
金軍が燕京に入城した後、燕京が宋に返還された。

西遼

耶律大石は支配下にあった部族を引き連れて、
西トルキスタンに逃れた。

この地にあったトルコ系イスラーム国であるカラ・ハンを滅ぼし、
西遼(カラ・キタイ)を建国。都をベラサグンにおいた。
東西交易路を押さえて東西交流の中心となった。

北宋の滅亡

話は戻って、
遼を滅ぼしたときの軍事費の支払いなどで、
宋は背信行為を行い、これに怒った金は大軍を南侵させた。

宋の将軍郭薬師が金に降伏すると、徽宗は「己を罪する詔」を出して退位。
金に恐怖を感じて息子の欽宗に位を譲った

金は開封を包囲。徽宗や蔡京は南方に逃走。
金は開封を落とせず、一旦帰国。
欽宗が即位した時、陳東は蔡京・童貫ら6名を六賊として、
流罪に出し、その後追手を出して、暗殺した。

靖康の変

靖康元年(1126年)の冬
金はさらなる宋の違約を責めて、開封を占領。
莫大な財貨や芸術品とともに、
上皇徽宗や皇帝欽宗、宗室や
官僚総勢約3000人が北に拉致された。

これを年号をとって靖康の変(せいこうのへん)という。
ここに北宋は滅亡した。

12世紀のアジア

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