応仁の乱

戦国時代

関東の享徳の乱とともに戦国時代の開幕を告げる乱。

応仁の乱

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嘉吉の乱の戦後処理と山名宗全と細川勝元の対立

1447年、山名宗全(やまなそうぜん/宗全は出家後の名前。本名・持豊もちとよ)が嘉吉の乱で足利義教とともに殺された山名煕貴(ひろたか)の娘(宗全の養女)を細川勝元に嫁がせた。その後の1454年、嘉吉の乱の原因となった赤松家の処遇をめぐり、赤松家再興を目指す足利義政とそれに反対する山名宗全が対立。山名家に対して、追討命令が出されるが、細川勝元のとりなしで赦される。1458年、赤松政則を加賀守護に細川勝元が取り立てた。これにより赤松家は再興するも、赤松家を再興した細川家と赤松家に恨みのある山名家が対立するきっかけともなる。対立するきっかけはこれだけではなく、細川勝元に男子(細川政元)が生まれると、細川勝元の養子の山名豊久を廃嫡し、仏門に入れたことも要因。

応仁の乱(応仁・文明の乱)の概要

応仁の乱の原因

畠山家・斯波家の相続争い

乱が起こった直接的原因は畠山家内と斯波家内の相続争い。

河内畠山家内
畠山義就vs畠山政久

管領家の一つ、畠山(はたけやま)家内で畠山持国の跡取りとして弟の畠山持富(もちとみ)が後継者となっていたが、1448年に、正妻の子ではない庶子の畠山義就(よしひろ)変更。畠山持富は1452年に死去。その後、1454年、義就が嫌いな家臣たちが、畠山持富の長男・畠山政久を擁立。擁立した家臣たちは排斥されたりしたものの、細川勝元や山名宗全の支持を得て、畠山義就を伊賀に放逐する。しかし、足利義政の支持を得た畠山義就は政久と入れ替わり、1455年、畠山持国が死去し、畠山義就が当主となる。1459年流浪していた畠山政久が死去。

畠山義就vs畠山政長

家臣たちは今度は畠山政長の弟・畠山政久を擁立する。以後、河内畠山家は分裂する。今回は山名宗全は畠山義就を支持して、細川勝元は以前からのように畠山政長を支持した。

斯波家内

斯波(しば)家内でも、惣領の斯波義健(よしたけ)が、1461年に跡継ぎのいないまま死去して、一族から迎えられた斯波義敏(よしとし)と九州探題の渋川家から送り込まれた斯波義廉(よしかど)が家督を争った。細川勝元は斯波義健を支持し、山名宗全は斯波義廉を支持した。

文正の政変

この政変は話せば長くなるので今のところは残念ながら割愛するが、要は足利義政によって斯波義敏が当主にされていたが、政変によって斯波義廉の義父である山名宗全と、細川勝元らによって斯波義敏は追放されて、足利義政はしぶしぶ斯波義廉を斯波家の当主にしたのである。

将軍家の世継ぎ問題

1467年5月,第8代将軍足利義政の跡継ぎを巡って、義政の弟で養子となった足利義視と義政の実子で、義政に後継者として指名されていたが、その翌年に9代将軍となる足利義尚(よしひさ)が1465年に生まれたために起こった争い。義政は政治に飽き飽きしており、義満のように銀閣をつくることだけを考えていた。全国の守護が2派に分かれ、京都を戦場として11年間争った乱。時の権力は、御台所と呼ばれ財力を握っていた義政の妻で、義尚の母である日野富子が握っていた。世の中は失政で乱れていた。

乱の大将

西軍は山名持豊(山名宗全)(やまなもちとよ/そうぜん)、東軍は細川勝元/細川政元。

両軍の陣容

守護大名はそれぞれ両軍に分かれ、東軍(細川軍)は畠山政長・斯波義敏・赤松政則ら24カ国16万人がつき、西軍(山名軍)は畠山義就・斯波義廉ら20カ国11万人と呼ばれる大軍がついた。

乱の経過

本戦前

1465年、細川勝元が伊予(今の愛媛県)に侵攻。伊予守護・河野道春(こうの みちはる)は山名宗全の養女を妻とする大内教弘(おおうちのりひろ)に援軍を要請。

本線前夜

1467年、山名宗全が足利義政に強要して、畠山政長から管領の座を奪い、その座を斯波義廉に与えた。それに反対するかのように、細川勝元は京に兵を集めて山名の兵糧を奪った。また、1467年5月、東軍側である赤松政則が山名領播磨国に攻め込み、播磨を赤松家に奪還したことが挙げられる。さらに細川勝元は山名側の一色家に攻め入った。

本戦

その後1467年6月に山名宗全も挙兵し、応仁の乱が始まる。はじめは、東軍が義政・義尚・義視を確保していた東軍有利にことはすすんでいた。しかし、1467年8月に大内教弘の後継・大内政弘が周防・長門・豊前・筑後の大軍を率いて西軍に加わったため、状況は一変する。東軍は将軍の屋敷を中心とする一角に追い込まれた。そんな中,1468年11月,足利義視が脱走し、西軍に逃げ込んだことから西軍は義視を将軍として擁立し、東西2つ幕府が成立する。

乱の結果

山名宗全と細川勝元の相次ぐ死去

1473年に西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が相次いで没する。

山名宗全の死去

1472年8月に山名政豊に家督を譲り、1473年3月18日、京都で死去した。遺体は南禅寺真乗院に葬られた。

細川勝元の死去

1473年5月11日、細川勝元は死去。悲田院の地蔵院に葬られた。

足利義尚、将軍へ

12月19日9歳の足利義尚は、元服し、足利義政から将軍職が譲られた。元服の儀に際して、畠山政長が三管領で唯一成人していたため管領に選ばれた。

戦国乱世へ

上記の二つの解決により、戦乱は一応終わる兆しを見せる。しかし、その戦乱しだいに収拾がつかなくなり、足軽の略奪が横行するようになった。1477年(文明9年)に畠山義就と大内政弘が下国するにあたり、両軍の間に和議が申し込まれた。東軍の畠山政長と細川政元(細川勝元の子)が勝利する。山名家の勢力は但馬あたりまで勢力が縮小した。やがて細川政元は畠山政長を追放し、斯波家・畠山家ともに没落し、管領の座は細川家が独占する。

応仁の乱のその後

影響

京都の町を荒れ果てさせ、後に来訪するザビエルもびっくりなくらいな状態になった。

「汝(な)レヤ知ル都ハ野辺ノ夕雲雀(ゆうひばり) アガルヲ見テモ落ツル涙ハ」

飯尾彦六左衛門尉(いいおひころくさえもんのじょう)
「応仁記」

幕府の権威は失墜し、土地制度として、荘園制も消滅し、実力主義の時代へと転換していった。

「例」という言葉を今後は「時」という言葉に置き換えよ

山名宗全
「塵塚物語」

山名宗全は時代の転換を論じた。

戦国時代の幕開け

下克上と呼ばれる実力で家臣が上司を倒すことが頻発する現象。守護大名も多くの場合没落しており、斯波家は織田家などに下克上をされた

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