4世紀の日本と朝鮮半島

古墳時代

中国では三国時代を経て国内統一に成功した晋が4世紀初めに北方民族(五胡)の侵入を受け、南北朝時代となったころの話。

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ヤマト政権と朝鮮半島

高句麗好太王碑文

これは碑石であって文書ではない。石に刻まれた文字。石や金属に刻まれた文を金石文という。高句麗好太王碑を建てたのは高句麗の長寿王。長寿王は好太王(こうたいおう・広開土王)の子供。好太王の1代の事業を記した高さは6.34mもある石碑。現在の中国の吉林省集安県にある。昔で言えば丸都。鴨緑江の側にある。

 百残(ひゃくざん)・新羅(しらぎ)は旧(もと)是れ属民( ぞくみん)になり。由来朝貢す。而(しか)るに倭、辛卯(しんぼう)の年より以って来り、海を渡りて百残・○○・○羅を破り、以って臣民と為す。

九年己亥(つちのとい)、百残誓(ちかい)に違(たが)い倭と和通す。王巡りて平壌に下る。而るに新羅使いを遣わして王に白(もう)していわく、倭人国境に満ち、城池(じょうち)を潰破(かいは)し、奴客を以って民となして帰る。

高句麗好太王碑文

百残(百済)と新羅はもともと高句麗の属民で、これまで長い間、高句麗に朝貢していた。
辛卯の年(391年)、百残・新羅を破って臣民とした。

 

ヤマト政権が朝鮮半島に出兵した訳

どうしてヤマト政権は朝鮮半島に目を付けたかだが、以下の二点があげられる。

  • 鉄資源…鉄は延棒にして日本に持って帰った。
  • 先進技術

鉄資源が欲しかったとともに、当時、高句麗は百済などの南部の国を圧迫していたたため、つながりのあったヤマト政権はそれらの国とともに高句麗と戦った。

当時の朝鮮半島

北側には強大な勢力を誇る高句麗が存在。391年に楽浪郡を高句麗は滅ぼした。半島の南部には東側に新羅(しらぎ)。新羅は辰韓(しんかん)諸国を統一してできた国。西側には百済(くだら)。これが馬韓諸国を統一して生まれた国である。南端は伽耶(加羅)。旧の弁韓地域の諸国の総称。弁韓地域は統一されることは無かった。

4世紀の朝鮮半島

上記の国々の滅亡年

  • 高句麗…668年←唐・新羅
  • 新羅…935年←高麗
  • 百済…660年←新羅
  • 伽耶←562年←新羅

※ヤマト政権はあくまでも、朝鮮半島南部を従属化させていただけで滅ぼしてはいない。
記事の見出しの画像はちょっと強調しすぎましたかね。

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