隋との交渉

倭の五王の遣使が跡絶えた以降中国との交流が絶え、冊封体制から抜けだしていたが、隋に拠る中国統一の結果、倭は対新羅関係を打破しようとした。

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『隋書』東夷伝倭国条

まとめたのは唐の魏徴

遣隋使

600年、第一次遣隋使

 開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞彌(おおきみ)と号す。使を遣して闕(けつ)に詣る。上(隋の高祖・文帝)、所司をして其の風俗を訪はしむ。使者言す、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して坐(ざ)し、日出づれば便ち(すなわち)理務を停め、云ふ、我が弟に委ねん」と。高祖曰く、「此れ太だ(はなはだ)義理なし」と。是に於いて訓じて之を改めしむ。

『隋書』東夷伝倭国条

このとき倭国の遣隋使は隋の文帝に拝朝したものの、文帝は倭国の政治・風俗に「義理」のないことを非難し、これを訓じて改めさせたとある。虚しく帰国した。対朝鮮関係の打開が遠征策のみでは解決できないことを示している。多利思比孤というのは推古天皇という説と厩戸王という説の2つある。それはひこという言い方が男ではという説と、其の王というのは推古天皇ではないかという説があった。

そこで政治改革が行われ、第2次遣隋使へと至る。

607年、第2次遣隋使

『隋書』東夷伝倭国条

大業三年(607年)、その王多利思比孤(たりしひこ)、使(けんずいし/小野妹子)を遣して、朝貢す。・・・(中略)・・・その国書に曰く、「日出づる処(ところ)の天子(推古天皇)、書を日没する処の天子(煬帝)に致す。恙無きや(恙=ツツガムシ=お変わりありませんか)、云云(うんぬん)」と。帝(てい/煬帝)、之を覧て悦ばず、鴻臚卿(こうろきょう/外交官)に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿(なか)れ(もう取り次ぐな)」と。明年、上(しょう)、文琳郎(ぶんりんろう)裴(世)清(はい(せい)せい)を遣して倭国に使せしむ。

なぜ、煬帝は悦ばなかったのか。

「日出処の天子」はこれから盛んになっていくという意味。「日没」はこれから衰退していくというのを暗に示している。また、倭国の大王が天子と自称したことでに対して、朝貢しているから対等とは言えないまでも、冊封を受けなかったので、自立しているように見える事を恐れた。

608年、隋から答礼使の派遣

東アジア世界の秩序のために、隋は文林郎であった裴世清を倭国に派遣する。隋と対戦中の高句麗と結び付くのを恐れたためである考えられる。

608年、第3次遣隋使

小野妹子が帰国後すぐに裴世清の送使として使わされる。

留学生・学問僧

渡来人の子孫8人が送られた。隋の滅亡と唐の建国を経験して帰国する。隋・唐帝国の先進知識を中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿などの次世代の指導者に伝授した。

留学生

高向玄理(たかむこのくろまろ/げんり)、遣唐使としても派遣され、長安で死去。

学問僧

南淵請安(みなぶちのしょうあん)

僧・旻(みん)

614年、第4次遣隋使

犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が小野妹子に次いで派遣された。

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