大化改新~乙巳の変~

飛鳥時代
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海外情勢

倭国でクーデターが発生したのは、
以下の海外情勢が原因です。

隋の滅亡と唐の建国

くわしくは唐の建国参照してください。

唐の建国と貞観の治
唐の建国 李淵(りえん)とは? 太原留守の任にあった 隋末の混乱の中、各地の反乱を抑えて、 中国を再統一したのは 李淵(りえん)・李世民(りせいみん)親子 であった。 関中を占領すると、 李淵(高祖)が唐を建国し、 都...

高句麗への征伐に何度も失敗したことが財政圧迫の一因となり、
618年隋は滅亡し、唐が建国された。

舒明天皇は630年に唐と国交を開始。遣唐大使に614年に最後の遣唐使として任命されていた犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を任命した。

朝鮮の情勢

百済

641年、義慈王(ぎじおう)がクーデターによって即位。
642年以降は新羅領に侵攻を開始します。

高句麗

642年、宰相の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)
国王と大臣以下の貴族たちを次々と殺した。

百済と組んで、新羅領を伺う。

新羅

対する新羅は唐に救援を求めたのだが、
唐の要求を巡って内乱状態となった。

相次ぐ主要人物の死

  • 622年厩戸王の薨去。
  • 626年蘇我馬子の死。
  • 628年推古天皇の崩御。

推古天皇の没後、舒明天皇(じょめいてんのう)・皇極天皇(こうぎょくてんのう/2人は夫婦)と移っていった。

山背大兄王の暗殺

蘇我馬子の後継者の
蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか) 父子は、
蘇我氏の隆盛を築きました。

蘇我入鹿は高句麗のような大臣が権力を振るうような制度を目指しました。

そこで邪魔になっていた厩戸王の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を暗殺し、
一族を滅ぼしました。

大兄というのは律令制以前の次期天皇という意味でした。

乙巳の変

乙巳の変の目的

皇族の中でも有力者の1人、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)や蘇我氏に
恨みがある中臣氏の中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに、
大臣中心の専制政治から王族中心の集権政治を目指して
蘇我本宗家の打倒を図りました。

蘇我入鹿は自ら天皇家を継ぐという意思を示したためです。

乙巳の変

乙巳の変の本番

645年、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で
三韓からの使者が来朝し、進貢の儀式の最中に斬り殺された。

蘇我蝦夷は息子の死を知り、
自宅に火を放ち自殺し、
蘇我本宗家はここに滅亡した。

この蘇我本宗家滅亡事件を
その年の干支からよじって
乙巳の変(いっしのへん)という。

「変」の意味

本能寺の変や乙巳の変や蛤御門の変などの「変」は
クーデターとか政権転覆の意味です。

乙巳の変のその後

新政権の発足

  • 皇極天皇が自身の弟で中大兄皇子の叔父・軽皇子に譲位。軽皇子は孝徳天皇です。
  • 中大兄皇子が皇太子となります。
  • 阿倍内麻呂を左大臣としました。
  • 蘇我倉山田石川麻呂を右大臣としました。
  • 中臣鎌足を内臣(うちつおみ)としました。
  • 旻と高向玄理を国博士(くにのはかせ)としました。

遷都

孝徳天皇は東アジアの動乱に積極的に関わるために
都を大和の外港の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に移した。

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