壬申の乱

飛鳥時代

天智天皇の死後、其の後継を巡っておこった乱。

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乱の背景

669年、それまで仕えていた藤原鎌足が亡くなると、天智天皇の弟である大海人皇子との間に亀裂が生じた。それは天智天皇が今までの慣例を破って皇位を子の大友皇子に譲ろうとしたからである。それを知った大海人皇子は仏道修行のために、「大津」の都かた「吉野」の山に向う。大海人皇子を宇治橋まで見送った舎人(とねり)たちは「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と言った。

677年正月には大友皇子は太政大臣に任命され、12月に天智天皇が死去した後は近江朝廷の中心となった。江戸時代の学者は皇子の測位を意見し、明治時代に追諡(ついし)され、弘文天皇と言われるようになった。しかし後述するように即位はできなかったはずである。

 

天皇の血筋

大海人皇子

舒明天皇と皇極天皇の間に生まれたが、第2子に過ぎず、皇位継承権はなく、終身兄に仕える身だった。

大友皇子

天智天皇と伊賀国の豪族の娘の間に生まれ、本来的には皇位継承権はなかった。地方豪族出身の母は卑母と呼ばれ、差別されたと言われる。(ただし、卑母が法制化されたのは大海人皇子=天武天皇の即位後)

 

乱の内容

天智天皇があまりにも急進的な改革を行ったため人身は離れた。そのため、家臣たちは天智天皇の弟である大海人皇子に助けを求めた。吉野で退いていた大海人皇子は、奸臣からの諌言に従い、吉野宮(よしのみや)で挙兵し、美濃国を本拠に東国から兵を徴兵し、関所を通りながら、近江大津宮へ派兵した。その後、大伴氏ら大和の諸豪族を配下に入れた。
一方、大友皇子は西国から兵を集めようと試みたが、天智天皇の治世で不満を持っていた豪族たちはいうことを聞かず、また、白村江の戦いで疲弊していたためか、あまり兵が集まらなかった。そして、大海人皇子は大友皇子を挟み撃ちにして自殺に追いやり、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で皇位につく。天武天皇と名乗った。

三関(さんげん/さんせき)

大海人皇子が通った関所。畿内を守るために軍事的要塞として配置された。一番南側が鈴鹿関(すずかのせき/三重県)、真ん中が不破関(ふわのせき/岐阜県)、一番北が愛発関(あらちのせき/福井県)。今回は、鈴鹿関と

”天皇”

「天皇」の称号は天武天皇の時代に初めて作られた。中国の皇帝と同じくらい、また新羅の国王より優位にたつ、「東夷の皇帝」として、「大王」に代わる称号として、自ら位置づけた。

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