聖武天皇の時代

奈良時代
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初期の政治

律令国家の支配組織長屋王と藤原四子を参考にしてください。

藤原四子の死後の政治

藤原四子は天然痘でこの世を去ったあと、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権の実権を握り、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)を登用した。玄昉は法相宗の僧侶。法相宗は南都六宗の1つ

藤原広嗣の乱

740年、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、吉備真備と玄昉の追放を求めて、九州の大宰府で挙兵し、反乱を起こした。これを藤原広嗣の乱という。藤原広嗣は藤原式家の祖・藤原宇合(ふじわらのうまかい)の子で、大宰少弐に任じられ九州に左遷されていた。大野東人がこの乱を鎮圧した。

4度の遷都

約5年という短期間の間に4度も遷都された。

恭仁京遷都

聖武天皇は、藤原広嗣の乱の平城京への波及を恐れて、740年山背国の恭仁京(くにきょう)に遷都した。

聖武天皇の迷走ルート

 難波宮遷都宣言

744年、橘諸兄によって、聖武天皇不在の中、難波宮で遷都宣言が出された。

紫香楽宮遷都宣言

難波宮遷都宣言を聞いた聖武天皇は744年、遷都宣言を紫香楽宮でも出してしまう。

平城京再遷都

紫香楽宮の周辺に火災多発したこともあり、745年に都を結局、平城京に戻した。

仏教政策

天然痘や藤原広嗣の乱を恐れ、怖がった、聖武天皇は仏教の力にすがり、仏教の鎮護国家思想による統治を目指した。

国分寺建立の詔

741年に国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)が恭仁京で発布された。国分寺建立の詔は全国の国府の近くに、国分寺・国分尼寺をセットで建立させた。

国分寺

正式名称

国分寺の正式名称は金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)という。金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を納めたことが由来。

僧侶の数

国分寺に配属されたのは20人。

統括元

全国の国分寺を東大寺が統括した。奈良の国分寺は東大寺であり、大和国の国分寺でありながら、全国の国分寺も管轄した。

国分尼寺

正式名称

国分尼寺の正式名称は法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)という。妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)、略して法華経を納めたことが由来。

尼僧の数

国分尼寺に配属された尼僧の数は10人。

統括元

全国の国分尼寺を法華寺が管轄した。奈良の国分寺は法華寺であり、大和国の国分尼寺でありながら、全国の国分尼寺も統括した。

大仏造立の詔

聖武天皇は河内国の智識寺(ちしきじ)にある大仏に触発されてより大きな大仏を作ろうとした。743年に大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり/盧遮那仏造立の詔・るしゃなぶつぞうりゅうのみことのり| とも)が近江国の紫香楽宮(しがらきのみや)で出された。都は恭仁京である。最初の大仏は紫香楽宮のそばにある甲賀寺で開始。

長官

大仏造立事業の長官は国中公麻呂(くになかのきみまろ/くんなかのきみまろ)

行基

  • 行基(ぎょうき)は社会事業家で法相宗の僧侶。大仏造立の際に大僧正に任じられた。僧尼令(そうにりょう)によって初めの頃、民間布教を禁止されていた。

墾田永年私財法

743年、三世一身法から20年。返却期限が近づくとまた荒廃した。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう/天平十五年の格・てんぴょうじゅうごねんのきゃく)がその年に出される。土地を開墾した人には、永久にその土地を私有地として認めるもの。国司の許可を得たら三年以内に開墾することが条件だった。

面積制限

一品の親王や一位は500町、初位以下庶民の場合は10町を限度。郡司については大領・少領については30町、主政・主帳は10町を限度にした。

初期荘園

有力寺社や貴族が班田農民や浮浪人を駆使して。開墾に乗り出し、あとのよでは荘園(しょうえん)とよばれるようになる。

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