嵯峨天皇の時代

平安時代初期
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平城太上天皇の変・薬子の変・奈良坂の戦い

平城上皇の重祚をはかって失敗に終わった事件。

変の概要

平城天皇の譲位

諸国の役人をチェックするための役人として観察使という令外官を置いたことで知られる、桓武天皇の子・平城天皇(へいぜいてんのう)は809年、弟の神野親王(のちの嵯峨天皇さがてんのう)に即位してから3年で病気のため譲位した。これは病が早良親王などの祟り原因であると考えたので、災禍を避けるために決意した。

平城京還都と二所ノ朝廷

太上天皇として力を維持していた平城太上天皇(略して平城上皇)は嵯峨天皇が病になると、その次の年に平城上皇は愛してままならない、藤原式家の藤原種継の娘である女官長(にょかんちょう)の藤原薬子(ふじわらのくすこ)やその兄の藤原仲成(ふじわらのなかなり)とともに再び権力を握ろうとして、もとの平城京への遷都を図った。平城上皇は平城京還都を宣言し、平安京の上皇と平城京の上皇の間で二所ノ朝廷(にしょー)と呼ばれる政治的大混乱となった。

平城太上天皇の変・薬子の変

嵯峨天皇の対応

嵯峨天皇は藤原北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と結んだ。その後、先手をうって兵を出すなど、迅速な対応で勝利をおさめる。その後、藤原仲成は射殺され、薬子は自ら毒を飲んで死ぬ。また平城太上天皇は東国への逃亡を図ったが失敗し、出家した。

蔵人頭

天皇の機密保持のために蔵人所(くろうどどころ)という役所が設けられた。役人を蔵人といい、長官を蔵人頭(ーのとう)という。初代蔵人頭は藤原冬嗣巨勢野原足(こせののたり)。これまで複雑だった太政官の機構が整理され、太政官を通さなくても、また、太上天皇に情報が漏れることなく、天皇が命令を出せるようになった。秘書官としての役割を担う。命令伝達がスムーズに。蔵人頭から参議へと昇進するのが、スタンダードとなった。

変の名前は?

この一連の流れは一般的に「薬子の変」(くすこのへん)と呼ばれる。しかしそれは、兄思いの嵯峨天皇が平城上皇に罪を着せないように配慮しただけであり、実際は兄弟の権力争いで、平城上皇が大きく関わっている。そのため、平城太上天皇の変と最近は呼ばれる。

神皇正統記

北畠親房(きたばたけちかふさ)が書いたことで知られる『神皇正統記』(じんのうせいとうき)にはこの記事のタイトルのように「奈良坂の戦い」と表現されている。

変のその後

藤原式家が没落し、それにかわって、藤原北家が隆盛するきっかけとなった。

検非違使

嵯峨天皇は検非違使(けびいし)を設置。検非違使は令外官。検非違使は犯人逮捕や治安維持・風俗取り締まり・訴訟裁判などの活動が中心だったが、のちに左右検非違使庁ができて別当が総括。従来複雑だった警察・裁判機構が整備され、検非違使に刑部省・弾正台・京職・五衛府の4つの機構が吸収される。

崇文の治

嵯峨天皇の時代から淳和天皇、仁明天皇の時代を崇文の治(すうぶんのち)という。

東北経営

本格的蝦夷征討を参考にしてください。

格式

格式を参考にしてください。

 

 

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