藤原家の他家排斥

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承和の変

変の概要

842年、嵯峨上皇の死を契機に、恒貞親王(つねさだしんのう)の部下である橘逸勢(たちばなのはやなり)と伴健岑(とものこわみね)が謀叛を企てたとして失脚させられる事件発生。時の天皇は仁明天皇。藤原冬嗣の子・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が仕組んだ。橘逸勢は伊豆に流され、伴健岑は隠岐に流された。

藤原家の高揚

この承和の変(じょうわー)が原因で、恒貞親王は皇太子を廃され、藤原冬嗣の娘の子・道康親王(みちやすしんのう/のちの文徳天皇・もんとくてんのう)が皇太子となった。承和の変は続日本紀に詳細が載っている。文徳天皇のもとで、藤原良房は太政大臣(だいじょうだいじん)にまでなっている。858年には、清和天皇(せいわてんのう)が幼少で即位したため藤原良房が臣下で初めて摂政となった。

応天門の変

応天門炎上事件

866年、応天門炎上事件発生。これは大納言・伴善男(とものよしお)が左大臣・源信(みなもとのまこと)を失脚させようとした事件。応天門(おうてんもん)は朝堂院の南正門で、大伴家が守衛していた。応天門に誰かが放火した事件。この事件の様子は常盤光長(ときわのみつなが)作の「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)に描かれている。

伴善男は返って、源信に返り討ちにさせられ、伴善男と紀豊城(きのとよき)は共謀者としてあげられた。

事件の処理

この応天門の変により、伴善男は伊豆に流され、共犯と見なされた紀豊城は安房に追放されて、かつての名門であった伴家・紀家は没落は決定的となった。

阿衡事件

887年から翌年888年に起こった事件。阿衡の紛議(あこうー)ともいう。

藤原基経

藤原良房の養子で、藤原基経(ーもとつね)が陽成天皇(ようぜいてんのう)を退位させ、光孝天皇を即位させたことにより関白になっていった。

事件の概要

宇多天皇(うだてんのう)が887年に即位すると名実ともに関白となった。しかし、藤原基経は宇多天皇が出した勅書に「阿衡」という文字が入っていた。「阿衡」は官職の名前だけで、実際の仕事の中身がないと藤原基経は主張した。宇多天皇は文書を起草した橘広相(たちばなのひろみ)を処罰した。橘家は没落した。

宇多天皇

藤原基経が死ぬと、宇多天皇は親政を開始。これを寛平の治(かんぴょうのち)という。

菅原道真の重用

宇多天皇は文章博士(もんじょうはかせ)であった菅原道真(すがわらのみちざね)を登用した。宇多天皇は、菅原道真を蔵人頭(くろうどのとう)に登用し、宇多天皇の譲位後、子の醍醐天皇も藤原基経の子・藤原時平(ふじわらのときひら)を左大臣に置くとともに、右大臣に菅原道真を登用した。

遣唐使の廃止

894年、630年以来続いてきた遣唐使が安史の乱で内乱続きの唐に送るのはいかがなものかと、また、唐から学ぶことはもうないとして、菅原道真の建議によって廃止された・

滝口の武士

滝口の武士(たきぐちのぶし)は蔵人所に管轄された武士。宇多天皇の時代に設置。清涼殿(せいりょうでん)の北東に滝壺があって、そのあたりに常駐していたのでそう呼ばれた。

昌泰の変

菅原道真が輝かしく動いていた中、それを不満に思った藤原時平が901年、醍醐天皇に讒言(ざんげん)し、大宰府に菅原道真を大宰権帥として左遷させた事件が発生。この事件を昌泰の変(しょうたいー)という。

菅原道真の短歌

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

現代語訳
「春の東からの風が吹いたら、梅の花の匂いを大宰府まで届けておくれ
主人である私が居ないからといって、春を忘れることのないように」

菅原道真

のちの飛梅伝説の元となった。

菅原道真と怨霊

大宰府で不遇のうちに亡くなった菅原道真の死後、不吉な事件が連発する。菅原道真の祟りと噂された。そして今では、供養されて学問の神様として祀られるようになった。

安和の変

醍醐天皇の子で左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)を源満仲(みなもとのみつなか)の密告により、藤原実頼(ふじわらのさねより)が大宰府へと流した。この事件により、藤原家に敵はもはやなくなり、また摂関常置体制に入った。安和の変のあと、冷泉天皇(れいぜいてんのう)から円融天皇(えんゆうてんのう)へと天皇の座が変わった。その後、藤原実頼が円融天皇の摂政に就任した。

有職故実

源高明は有職故実(ゆうそくこじつ)という儀式や学問の研究の書物をまとめあげていた。この書物を西宮記(さいぐうき/さいきゅうき)という。

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