西ゴート王国とアッティラの王国

ヨーロッパ世界の形成と発展
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ゲルマン諸族の侵入

西ゴート人がローマ帝国へ侵入した後、西ゴート人への対処だけで精一杯となったローマ帝国の警備が薄くなった北辺にヴァンダル族やスエヴィ族、アレマン族が406年12月31日、氷結したライン川を渡りガリア全域を混沌に陥れた。ローマ皇帝はゲルマン諸族を盟約族(フォエデラティ)として、定住を認めたが程無くしてそれは終わる。

西ローマ帝国の滅亡

476年、スキリ族の王オドアケルが、最後の西ローマ皇帝で、まだ幼いロムルス・アウグストゥルスを廃した。皇帝の記章をコンスタンティノープルに送りつけた。

フン帝国とアッティラ

アッティラの伝説

アッティラが振るっていた剣はローマ人に「軍神の剣」として恐れられた。その結果、アッティラは「無敵の人殺し」の称号を得る。襲撃した都市を略奪した後は破壊の限りを尽くし、征服した都市の人々を虐殺し、生き残ったならば、奴隷にしたと言われる。

アッティラの経歴

アッティラ兄弟の即位

434年、伯父のルア王の死後、兄のブレダとともに王に即位。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)へと両王ともに攻撃し、金銀財宝を巻き上げた。

アッティラの独裁者化

445年、ブレダを倒して独裁者となった。瞬く間にカスピ海からバルト海に至る領土を支配下においた。ヨーロッパの人々は恐れをなした。

ウトゥスの戦い

447年ウトゥスの戦いでビザンツ帝国を壊滅的な状況に追い込みながら、ヨーロッパ平原を西進。トラキアを獲得する。なお、コンスタンティノープルは城壁が固く陥落することはなかった。

カタラウヌムの戦い

アッティラに率いられたフン人はガリアに侵入。しかし、451年、カタラウヌムの戦いで西ローマ・西ゴート・ブルグンド(ブルグント)・フランク連合軍に敗北。アッティラ史上唯一の敗戦を喫する。

アッティラの死とフン帝国の崩壊

北イタリア侵攻のあと、結婚式の夜にアッティラは大量の鼻血をだし、意識を失って倒れたという。453年のことだった。アッティラはそのまま帰らぬ人となった。その後、伝染病などがフン帝国に蔓延し、フン帝国は瓦解していった。

西ゴート王国

アドリアノープルの戦い

西ゴート人はブルガリアに定住し、378年に東ローマ帝国皇帝ウァレンスを敗死させた。その後、アラリック1世のもとバルカン半島からイタリア半島へ移動する。

西ゴート王国の流れ

建国

アラリック1世はアフリカ北岸を目指して進軍したが、イタリア南部の川で溺れ死ぬ。その後、アキタニア、ヒスパニアに定住した西ゴート人は、トロサ(現在のトゥールーズ)に王国を418年に作った。これが西ゴート王国である。

遷都

507年、クローヴィス率いるフランク族に敗北。イベリア半島のトレドに遷都する。

滅亡

711年、イスラーム教徒のウマイヤ朝によって滅ぼされる。詳しくはイスラーム世界の成立を参考。

改宗

多くのはゲルマン人が帰依したキリスト教の異端アリウス派を、レカレド王が捨てた。この結果、多くのラテン人にも受け入れられた。また、スペインが宗教(カトリック)に熱心な国になった原因の1つである。

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