カール大帝の業績

ヨーロッパ世界の形成と発展
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即位

768年に小ピピンが死ぬと、その子カールとカールマンの兄弟が王国を2分割にして治めていたが、771年のカールマンの死で、カール大帝(カール1世/シャルルマーニュ/Karl I/Carlemagne/在位768~814)が全フランクを統一して支配することとなった。

 

人柄

体格

伝記作者である、アインハルト(エギンハルドゥス)の「カール大帝伝」によれば、大帝は小太りの大柄な身体であったとされ、身長は約195cmもあったと言われる

特技

馬術・狩猟・水泳などが得意であったと言われる。とくに水泳が得意で、アーヘンの宮廷に設けられた温泉プールに家臣たちと競泳したところ、大帝の右に出るものは居なかったと言われる。

服装

簡素。ローマ風の正装を好まなかったとされる。

功績

外征

対イタリア

774年、南方のロンバルド人(ランゴバルド人)が再び勢いを増し、教皇を脅かしていたがために、カール大帝はこれを討伐し、ロンバルド王国(ランゴバルド王国)を滅ぼした

このようにして、イタリアの北半を併合。中部イタリアを教皇領として確認する。

対ザクセン人

722年以降、ザクセン人(サクソン人)に対して、遠征を繰り返し、804年征服。ドイツのバイエルンザクセンを併合する。

対スラヴ人・アヴァール人

791年以降はドナウ川中流域のスラヴ人(ヴェンド人)やアヴァール人を破り併合する。

アヴァール人とは?

中央アジアのモンゴル系遊牧民。中国の柔然(じゅうぜん)を起原とする説がある。
6世紀に、中央ヨーロッパに移動し、ビザンツ王国・フランク王国に侵入を繰り返す。

対イベリア半島

778年、イベリア半島のイスラーム勢力を攻めて、エブロ川以北を占領。795年にスペイン辺境伯領となる。

「カールの戴冠」

カール大帝の外征の成果として、東方のビザンツ帝国と並ぶ大国となる。

それで東方教会になんとしても権威をあらわしたいローマ教会は西ローマ帝国の復活を画策し、戴冠を計画する。

教皇レオ3世(Leo Ⅲ/在位795~816)は西暦800年のクリスマスの日にローマのサン・ピエトロ大聖堂において、カールに教皇自らの手で、伝統あるローマ皇帝の冠を頭にかぶせた。

ここに西ローマ帝国は復活する。

また、ローマ帝国唯一の後継者を自認していた、ビザンツ帝国の皇帝はカールを敵視する。

 

カールの戴冠を機に、ゲルマン、ローマ帝国、キリスト教の3つの要素が合体した西ヨーロッパ世界が成立したのであった。

国内統治

王権を強化し、中央集権化するために、全国を人口数万人ごとに州に分け、国王直属の伯(はく/グラーフ/Graf/地方長官)を任命した。

また、伯が不正を起こさないように巡察使を派遣して、伯を監督させた。

それでも心配だったカール大帝は「王の力」を誇示するために、自ら回って巡察した。宮廷にはほぼ居なかったといわれる。

カロリング・ルネサンス

カール大帝は自身は字が読めなかったが、文化面ではラテン文化の復興・教育に力を注ぐ。

ブリタニア出身のアルクィンら神学者
聖職者のラテン語教育のために首都アーヘンの学校に招く。

聖書はラテン語で書かれていたが、聖職者はゲルマン人が多数を占めていたため、聖書を読むことが出来なかったためである。

アーヘンで花開いた文化を後世の学者はカロリング・ルネサンスとよんだ。

フランク王国の分割

カール大帝の死後フランク王国は衰退の一途をたどる

ヴェルダン条約

843年、フランク王国はヴェルダン条約で、シャルル2世の西フランク王国、ルートヴィヒ2世の東フランク王国、ロタール1世の中部フランク王国に分割される。

メルセン条約

870年、分割が確約される。

分割した理由

  1. 国歌があまりにも広くなりすぎたために、カール大帝のような有能な皇帝でなければ、国歌を統治することが困難であったため。
  2. フランク人には分割相続の風習があったので、親の死後には領土などの財産をこどもたちが分割して相続する習慣があったので。

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