トルコ革命

アジアの情勢

かつて栄華を誇ったオスマン帝国もだんだんと領土縮小していき、遂に何世紀にもわたって君臨した帝国は滅びてしまう。

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第一次世界大戦においてのオスマン・トルコ帝国敗戦

第一次世界大戦とは?

「ヨーロッパの火薬庫」としてかねてより危惧されていたバルカン半島において、オーストリアの皇太子・フランツ=フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォで1914年6月28日にの反ハプスブルク系組織に所属するセルビア系青年により殺された事件。

このサラエヴォ事件を皮切りに発生したのが第一次世界大戦である。

皇太子夫妻が殺されたオーストリアとその同盟相手であったドイツがセルビアに宣戦布告。セルビアを支援していたスラブ民族こそ第一な汎スラブ主義のロシアが同盟国に宣戦布告。

オスマン・トルコ帝国の強制的参戦

かねてより露土戦争等、ロシアと不仲であったオスマン・トルコ帝国はロシアと協商関係(経済的友好関係)にあったイギリス・フランスにより1914年11月宣戦布告される。オスマン・トルコ帝国の参戦により、戦線は西アジアにも拡大する。

オスマン・トルコ帝国の単独休戦

1918年11月単独休戦。戦力差は圧倒的であった。

トルコ革命

第一次世界大戦でこうして、敗戦国となったオスマン・トルコ帝国の国土はアナトリアとトラキアを残すのみとなる。

1918年11月には英仏伊米連合軍がアナトリア南部に上陸。そして占領する。各地のギリシア人やアルメニア人やクルド人が独立の動きを見せ、オスマン帝国は滅亡の危機に瀕する。

連合国に妥協的態度をしめす、イスラムの帝王が牛耳るスルタン政府に不満をもった第一次世界大戦でもガリポリの戦い等で戦果を上げたムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal/のちのケマル・アタテュルク 1881~1938/ケマル・パシャとも)は、北西アナトリアのシヴァスで開かれた代表者会議の議長として、祖国解放戦争の火種を切る。

1920年4月アンカラに大国民議会を招集。列強に支援されたスルタン冠するイスタンブル政府との戦いに入った。1920年8月にイスタンブル政府と列強の間で交わされたトルコにとって屈辱的なセーヴル条約により領土は3分の1を残すのみとなった。(条約は批准されない。)

アンカラ政府は1921年8月サカリア川の戦いでギリシア軍を破り、1922年にはイズミルを奪回。

祖国解放戦争の過程で、ケマルの独裁権は強化され、1922年10月はスルタン制度廃止を決定。スルタン・メフメト6世は国外に亡命。彼の従兄弟がカリフに選ばれる。1923年に列強との関税自主権等、不平等条約をローザンヌ条約により撤廃。連合軍は撤退。1923年10月に共和国を宣言。人民党を設立。1924年にはカリフ制を廃止。西洋的憲法も制定する。公の場でのイスラム教徒の女性が身につけているヴェールの着用禁止等定め、太陽暦の採択、一夫多妻制の禁止、アラビア文字を廃止してアルファベットを採択する等、西洋化・政教分離もすすめた

大国民議会は1934年、ケマルに対してアタトゥルク「父なるトルコ人」の称号を授けた。

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