大名の配置〜江戸幕府を支えた基盤づくり②〜

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家康の死と秀忠の功績

領知宛行状

徳川家康の三男であり、江戸幕府2代将軍でもある徳川秀忠(とくがわひでただ)は、1617年(元和3年)に領知宛行状(りょうちあてがいじょう)を発給した。

秀忠自ら、全国の大名に対して、土地領有者としての地位を明示した。

豊臣大名と旧族大名らの改易

代表的な例

1619年、豊臣秀吉の子飼いの武将として知られる福島正則(ふくしままさのり)が許可も取らず勝手に城を修復したとして49万8千石の領地を改易(没収)したのをはじめ、関ヶ原の戦いでの裏切り者として有名な小早川秀秋、堀忠俊(ーただとし)、有馬晴信、最上義俊、蒲生氏郷(がもう うじさと)、池田正綱などが例としてあげられる。

徳川の威光

外様大名を多く取り潰したことは、反徳川への機運を未然に防ごうとしたものだ。徳川に逆らうものは皆取り潰しだぞと示した。将軍より年上の西国有力大名をも処分できる圧倒的な力を示した。

転封

また、藤堂高虎(とうどう たかとら)伊予国(愛媛県)今治より伊勢国(三重県)津へ、加藤嘉明(かとう よしあき)は伊予国松山から陸奥国(むつのくに)、会津若松へと転封(てんぽう)となった。

転封とは?
封じられる土地を変えられること。領地替えのことである。転封された大名というのは、今まで先祖代々築いてきた領地と別れることであり、今のような転勤とは辛さの次元が異なる。

大名の地位の差別化

大名を徳川との友好関係で分類した場合、親藩、譜代、外様に分類ができる。

親藩

親藩(しんぱん)は徳川一門の大名。親藩は江戸幕府の終わり頃、つまり幕末の頃には約20の家があった。

御三家

きみとはおわりだね」で覚えることで有名な徳川一門の大名のことを御三家(ごさんけ)という。紀伊藩、水戸藩、尾張藩をまとめた総称のことである。

  • 御三家の藩祖
    紀伊藩・・・徳川頼宣(ーよりのぶ)
    水戸藩・・・徳川頼房(ーよりふさ)
    ※因みにを水戸黄門で知られる徳川光圀(ーみつくに)は2代目の藩主。
    尾張藩・・・徳川義直(ーよしなお)

    藩祖は全員、徳川家康の子どもである。

御三卿

  • 田安家(たやすけー)
  • 一橋家(ひとつばしー)
  • 清水家

の三家を御三卿(ごさんきょう)という。これらは大名ではない。

御三家との共通点は

将軍の跡継ぎがいない場合には、将軍家を継ぐことができた。

という点。

御三卿の設置
田安家と一橋家を設置したのは8代将軍・徳川吉宗(ーよしむね)である。吉宗の子が田安家の藩祖・田安宗武(ーむねたけ)だ。因みに宗武の子が寛政の改革で知られる、松平定信(まつだいらさだのぶ)である。
清水家を設置したのは9代将軍・徳川家重(ーいえしげ)。

御家門

御三家と御三卿をのぞく親藩は御家門(ごかもん)と呼ばれた。

譜代

関ヶ原の戦い以前の三河時代から、徳川氏へ直接付き従っていた武士が大名となったものを譜代(ふだい)という。関ヶ原前後では37家に過ぎなかった。

譜代大名は幕府の要職に就いた。しかし、石高はそれほど多くはない。幕末には145家の譜代大名が存在した。その145家の中で、もっとも勢力を振るったのは、彦根藩井伊家の35万石だ

外様

関ヶ原の戦いより後、徳川氏に帰順したのが外様(とざま)と呼ばれる大名。幕末には100家を越えた。外様大名は石高は多いが、四国や九州、東北などの辺境に配置され、要職に就くことはできなかった。その中で最大規模を誇ったのが加賀藩の前田家102万石である。その他、薩摩藩島津家の73万石、陸奥国仙台藩の伊達家の56万石などが知られる。有力な者が多かった。

そのため、辺境の地にも譜代をお目付役として配置している。

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