日米修好通商条約の締結

幕末

日本は混沌としていきます。

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 ハリスの要求

日米和親条約に基づいて、
1856(安政3)年にハリスが初代駐日総領事として下田に着任します。

ハリスは1857(安政4)年、
幕府の制止を押し切って江戸に入り将軍に謁見します。

そこでは、
たまたま中国でアロー号事件が起こり、
英仏連合軍が清を破って北京へ侵入したことを例にあげ、
幕府に対して強い姿勢で通商条約の締結を要求したのです。

いわゆる脅しです。

将軍継嗣問題

ハリスとの交渉にあたったのは、
阿部正弘のあとをついだ
老中首座の堀田正睦(ほったまさよし/1810~1864)でした。

堀田正睦は天皇からの許しである勅許(ちょっきょ)を得ることで、
通商条約を巡る国内の激しい意見対立を抑えようとしました。

しかし、この妥協的な政策に対して、
従来の幕府独裁を主張する
井伊直弼(いいなおすけ)などの
譜代大名や旗本の反発が強まりつつありました。

将軍継嗣問題

この対立は、
将軍・徳川家定の跡継ぎを誰にするのか!
という将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
巡って激しくなっていきました。

南紀派と呼ばれる
譜代大名や将軍側近や大奥一派らは
血統を第一に重んじて幼年ではあるが
紀州藩主・徳川慶福(とくがわよしとみ/のちの徳川家茂(いえもち)1846~1866)を支持。

開明派である越前藩主・松平慶永(ーよしなが)や薩摩藩主・島津斉彬(ーなりあきら)、土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ)や宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)など雄藩の藩主は
英明の声が高かった徳川斉昭の子の
一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ/のちの徳川慶喜/1837~1913)
擁立しようとしました。

堀田正睦の対応

一橋派の堀田正睦(ほったまさよし/1810~1864)は
天皇からの許しである勅許(ちょっきょ)を得ることで、
通商条約を巡る国内の激しい意見対立を抑えようと都へ上京し、
朝廷にアメリカをはじめとする列強との戦争になることを避けるため、
条約を結ばざるを得ないと朝廷を説得しました。

南紀派はそれを防ごうとして朝廷に働きかけていた。

堀田正睦は朝廷から簡単に勅許が得られると考えていたが、
孝明天皇(こうめいてんのう/在位1846~1866)を筆頭に
条約締結反対・鎖国攘夷の空気が強く、勅許を得ることができなかった。

こうして、将軍継嗣問題と条約締結問題が複雑に絡み合っていくのでした。

大老・井伊直弼の専制政治

将軍継嗣の決定と通商条約の調印

堀田正睦が江戸に帰った直後、
南紀派で彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任した

井伊直弼は将軍継嗣を徳川慶福と決定し、
勅許が得られないまま
1858年6月、通商条約に調印した。

日米修好通商条約の調印により、
日本は外国との通商関係に入り、完全に開国することとなった。

この条約によって、
日本は関税自主権を失い外国人に治外法権を認めることとなった。
この不平等条約により日本は長期間苦しむこととなった。

日米修好通商条約の内容

  1. 公使・領事を交換し、その駐在と国内旅行権を認める。
  2. 下田・函館のほか、横浜・長崎・新潟・兵庫を開口し、江戸・大坂を開いて自由貿易を行う。
  3. 同国の貨幣は同種同量で交換する。
  4. 関税は協定で定める。(関税自主権の喪失)
  5. 領事の裁判権を認める。(治外法権)

第6条

日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以って、罰すへし。亜墨利加人へ対し法を犯したる日本人には、日本役人糺の上、日本の法度を以って罰すへし。「大日本古文書 幕末外国関係文書」

安政の五か国条約

幕府はついで、8月にはイギリス・ロシア・オランダと、
10月にはフランスとほぼ同様の条約を締結した。

これを安政の五か国条約と言って、
天皇からの許し(勅許)が得らえれないまま、
条約を締結したので安政の仮条約ともいう。

日米修好通商条約批准書交換

外国奉行、新見正興(しんみ まさおき/1822~69)を
主席全権としてアメリカに派遣。

勝義邦(かつよしくに、海舟、かいしゅう/1823~99)らが、
幕府軍艦咸臨丸(ばくふぐんかんかんりんまる)を操縦して、
太平洋横断に成功した。

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