後三条天皇による「延久の荘園整理令」

平安時代後期

いよいよ平安時代も後期に突入します。

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後三条天皇とは?

後三条天皇は摂関家外戚にはしていません
藤原頼通の娘には皇子が生まれなかったためです。

後朱雀天皇の第2皇子であり、母は禎子内親王です。

後三条天皇が即位したときには、すでに壮年になっています。

「たけき御心にておはしまし」として評判になるほどに
個性豊かな天皇です。

大江匡房(おおえまさふさ、1041~1111)らの学識に優れた人を登用して、
摂関家へ特に配慮することもなく、
国政の改革に努めました。

延久の荘園整理令

荘園が摂関家に集まりつつあり、
国の公領を減らす理由になっていました。

そこで、

後三条天皇は、
寄進地系荘園を整理するために、
1069年(延久元年)に延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を出します。

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醍醐天皇の時代から
行われていた荘園整理令では
その実施は国司の努力義務であったために、
国司の判断次第となってしまい、
不徹底に終わっていました。

記録荘園券契所

そこで、
その荘園整理を進めるために設置したのが、
記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)です。
略して記録所ともいいます。

この記録荘園券契所で、
徹底的な審査が行われていくことになります。

審査は、
天皇の側近である
弁官(べんかん)寄人(よりうど)を選出しました。

 

審査基準

審査基準は、

  1. 寛徳2年(1045年)以降の新立荘園
  2. 国務に妨げのある荘園
  3. 券契不明な荘園

です。

この基準に合わない荘園を
停止したのが記録荘園券契所なのです。

券契

券契(けんけい)というのは、
荘園を寄進したという証明の書類のことです。

 

結果

石清水八幡宮のケースでは、
34箇所あった荘園でみとめられたのは、
21箇所しかありませんでした。
つまり、13箇所の荘園は停止になってしまいました。

このことに対して、
当事者である藤原頼通は、
猛烈に抵抗しています。

それが描かれているのは、愚管抄です。

 

成功要因

なぜ、この荘園整理令は成功したのでしょうか?

それは、摂関家に対して
「あけくれひざまづきありく」
言われていた受領の要求を
天皇が受け入れたこと。

そうした中で、天皇が自ら主導権を行使したからになりません。

天皇家も収入を確保するために、
必死になりました。

宣旨枡

国家公定の枡も定めました。
枡の基準を公で策定したのです。

これは宣旨枡(せんじます)といいます。
後世まで使われることとなります。

まとめ

後三条天皇による延久の荘園整理令は、
一応の成功を達成しました。

その結果、荘園での不正がしづらくなった結果、
藤原氏を始めとする貴族や、国司の力は衰え、
天皇の権勢は上がっていきました。

後三条天皇はわずか4年の在位の期間で、
次の白河天皇への院政の基盤を作り上げました。

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