平氏政権の全盛~この一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし~

平安時代後期
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平清盛の政治~六波羅政権~

平清盛が平治の乱に勝利して、
六波羅政権を確立します。
実は平清盛の前に、
一族の土台がちゃんとありました。

平治の乱と平氏政権への道
前回、伊勢平氏の発展と保元の乱で、 勝った側の武士同士の対立が戦いの原因となりました。 では、今回の平治の乱をみていきましょう。 平治の乱の背景 後白河天皇の譲位と院政の開始 保元の乱のあと、1158年(保元3年)に後白河天皇...

六波羅政権

平清盛は1167年に武士として最初の太政大臣となりました。

政庁や一族の居宅を六波羅に構えたので、
平氏政権の別名を六波羅政権(ろくはらせいけん)とも言う訳です。

平清盛は六波羅殿とよばれました。

祖父・平正盛の政治

平正盛の政治は以下リンク参照。

伊勢平氏の発展と保元の乱
伊勢平氏の発展 桓武平氏と伊勢平氏の関係性 平忠常の乱よりあとのこと 源氏に立場は取って代わられてしまい 桓武平氏一族は散り散りになってしまいました。 関東に残った桓武平氏の中には、 源氏の家人となるものもいたそうです。 ...

父・平忠盛の政治

平忠盛の政治は以下リンク参照。

伊勢平氏の発展と保元の乱
伊勢平氏の発展 桓武平氏と伊勢平氏の関係性 平忠常の乱よりあとのこと 源氏に立場は取って代わられてしまい 桓武平氏一族は散り散りになってしまいました。 関東に残った桓武平氏の中には、 源氏の家人となるものもいたそうです。 ...

平氏一族の高位高官独占

平時忠が

「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」

と述べるほど平氏一族の勢いは増します。

平清盛の子・平重盛をはじめ、
平氏一族はみんな高位高官をえました。

さらに、
平氏一門は、
海賊や山賊などの盗賊の追討使に
任命されたり、受領となったりして、
東国にも平氏の力をのばしました。

平氏の武士団の成長

平氏が全盛を迎えた背景には、
各地での武士団の成長がありました。

平清盛は、武士団の一部を、
荘園や公領の現地支配者である
地頭(じとう)に任命しました。

さらには、畿内や西国一帯の武士を
家人(けにん)とすることに成功しました。

安徳天皇と外戚政治

平氏は武家の顔だけではなく、
公家の顔も持っていました。

平清盛は、娘の徳子(とくこ)
高倉天皇(たかくらてんのう)のもとに入内(じゅだい)させます。

そうして徳子と高倉天皇の間に
生まれた男の子が、安徳天皇(あんとくてんのう)です。

安徳天皇から見れば、
平清盛は母方の父にあたります。

ということで、
平清盛は外戚政策(がいせきせいさく)をとって平氏の基盤を造ったといえます。

平清盛の経済政策

平氏の荘園

長講堂領

平清盛は、後白河上皇とむすびました。
後白河上皇の院政の財源の1つに、
長講堂領(ちょうこうどうりょう)と呼ばれる
寄進地系荘園からの収益がありました。

長講堂というのは、
後白河上皇の持仏堂のことです。

平氏所領

荘園は500余所にのぼったといわれます。
平治の乱で相手方から奪ったものや、
摂関家から押領したものもありました。

知行国

日本全体の半数に及ぶ30余国が平氏の知行国となったといわれ、
平氏は、知行国主として一門で受領を独占しました。

hその租税は平氏一門に入りました。

日宋貿易

平氏政権は積極的に宋との貿易を行いました。

日宋貿易は平忠盛がこれを管理しようとしていました。
平清盛は安芸国(現在の広島県)の
音戸の瀬戸(おんどのせと)を開削し、
摂津国(現在の兵庫県など)の大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し、
瀬戸内海航路を整えました。

日宋貿易における日本の主な輸出品は、
金・水銀・硫黄などの鉱産物や刀剣などでした。

日本の主な輸入品は、宋銭・陶磁器や「太平御覧(たいへいぎょらん)」でした。

日宋貿易における日本の輸入品は唐物(からもの)と総称されます。

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