建文新政と靖難の変と永楽帝の即位~明朝時代の黒歴史~

明・清代の中国と近隣国
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建文帝

 

即位

1398年閏5月、洪武帝が70歳で亡くなります。

次に即位したのは、洪武帝の孫である
建文帝(けんぶんてい/恵帝/けいてい/在位1398年~1402年)です。

建文帝は22歳で新皇帝となりました。

政治

建文帝は側近の補佐を得て、
洪武時代に反する新制作を打ち出します。

建文帝時代に活躍するのは、
元朝時代の南人層(旧南宋領の中国人)です。

南人たちは洪武帝時代にも抑えられていました。

建文帝の打ち出した政策は
民生重視政策と削藩政策です。

民生重視政策

翰林侍講(かんりんじこう)・方孝孺(ほうこうじゅ)の政策です。

方孝孺は浙東学派(せっとうがくは)の領袖(りょうしゅう/頭や主をさす)でした。

方孝孺の思想は、
「養民」でした。
すなわち民生を大切にするということでした。

  • 刑罰の軽減
  • 租税の原綿
  • 徴税機関の撤廃
  • 「周礼」にならった官制改革

など

 

が実施されました。

洪武帝の政治の対極にあたる政治を
実施しました。

削藩政策(諸王抑圧政策)

兵部尚書(ひょうぶ・しょうしょ)・斉泰(せいたい)と
太常卿(たいじょうきょう)・黄子澄(おうしちょう)が
担ったのは北方諸王への削藩政策です。

万里の長城に沿って諸王が配置されており、
北方防衛上の体制が敷かれていました。

しかし、
光武帝の子である諸王からしてみれば、
建文帝は甥であるため命令を聞いてもらいにくく、
また、彼らの軍事力は南京政府にとってみれば、
恐怖でしかなかったのです。

 

靖難の変

燕王・朱棣

諸王の中で、最大の脅威は、
燕王・朱棣(しゅてい/1350~1424/後の永楽帝)です。

光武帝の在命中から、大器と思われており、
北方防衛では実績をあげていました。

「国難を靖んじる」

南京政府が藩をじりじりと追い詰めるなか、
燕王は「君側の奸をのぞいて帝室の国んじる」として、

南京政府に反旗を翻す。

これが「靖難の変」です。

4年にわたって戦われ、
最後は燕王軍が帝都・南京を攻略することで、
ピリオドを打ちました。

永楽帝の即位

南京城が陥落した際、
降伏した官僚たちの強い嘆願を受けて、

燕王は

第3代永楽帝(えいらくてい/成祖/せいそ/在位1402年~1424年)

として即位します。

建文年号の黒歴史化

永楽帝が即位したあと、建文帝時代はなかったこととなり、
建文時代の政策はすべて破棄され、
建文年号は洪武年号のなかに組み込まれた。

建文年号が復活するのは、
明代最後の皇帝・万暦帝の頃にならなければならない。

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