ドイツ植民地帝国とドイツによる二度にわたるモロッコ事件

世界分割と列強対立

ドイツはイギリス・フランスの接近に不安を感じていきます。。。

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ドイツのアフリカ植民地

1884年に開かれたベルリン会議以降、
カメルーン、東アフリカ(タンガニーカ)、
西南アフリカ(ナミビア)、トーゴランドの
領有権を獲得しました。

ドイツの植民地での反乱

ドイツの支配した地域では、
強制的な土地収奪が行なわれた。

ヘレロ戦争

西南アフリカ(ナミビア)では1904年、
2つの部族が反乱を起こした。

ドイツ軍はこの反乱を鎮圧するのに4年かけ、
その結果、数多くの残虐行為を行った。
(ヘレロ・ナマクア虐殺)

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マジ=マジの反乱

1905年にタンガニーカで、
綿の強制栽培に反対するために、
20以上の民族・部族が集結して、
マジマジの反乱を起こしました。

マジとは「聖なる水」という意味で、
マジを飲んで戦ったことに由来します。
マジを飲むと不死身の身体になるとされました。

なお。全員殺されました。

12万人の犠牲者を出しました。

その後、ドイツは内外の批判を浴び、
穏和な植民地政策へと転換しました。

モロッコ事件

第1次モロッコ事件

英仏協商でフランスのモロッコ支配が認められたことに
北アフリカ領に関する英仏の取り決めに
不満を抱いたドイツの皇帝ヴィルヘルム2世は、
1905年、突如、モロッコの港町タンジールを訪問します。

 

そこのスルタンと会見を開き、
ドイツはモロッコの主権を強調しました。

アルヘシラス会議

1906年にドイツの要求で、
スペインのアルヘシラスで開催されました。

この会議では、
イギリス・ロシアばかりでなく、
イタリア・アメリカもフランスを支持したために、
ドイツは孤立しました。

第2次モロッコ事件

1911年、モロッコでベルベル人の反乱が発生しました。

フランスが反乱の鎮圧のために挙兵すると、
ドイツも居住民の保護のために、
モロッコ南部のアガディール港に
ドイツ軍艦を派遣します。

独仏衝突の危機が高まりましたが、
フランス領コンゴのドイツへの一部割譲を条件に、
フランスのモロッコの保護領化を認めざるをえませんでした。

結果

ドイツのこの砲艦外交は、
国際社会から露骨な権力外交として批判される一方、
ドイツ国内ではドイツに譲歩を迫ったイギリスへの不満が高まりました。

一方、イギリスでは、ドイツの行為はイギリスの海上覇権への挑戦と受け止められ、
ドイツと戦うことを辞さないという立場になりました。

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