イギリスの帝国主義の時代~自由貿易の帝国主義・世界の銀行~

19世紀後半のイギリスは自国産業の市場確保を目指して、
世界各地に侵…進出していきました。

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自由貿易の帝国主義(非公式の帝国)

イギリスが海外進出の際に、
直接、イギリスの政治的・領土的支配下に治めるよりも、
必要に応じて、
強大な軍事力で現地政権を従属させ、
自由貿易の理屈に基づき、不平等な通商条約を
自由の名のもとに押し付けました。

このような、間接的支配地域の拡大の方法を
「自由主義の帝国主義」
または、「非公式の帝国」といいます。

「自由貿易の帝国主義」の具体例

中国

アヘン戦争・アロー戦争を引き起こして、
貿易都市を増やし、関税自主権を無くして、
また、領土として香港・九竜半島を獲得していきました。

その他

自由主義の名のもとに、
自由貿易の原則のもと、
日本・タイ・トルコ・ブラジルなどにも、
不平等条約を押し付けました。

小英国主義

自由貿易論者・コブデンの主張

自由貿易を主張するコブデンらは、
国防費の削減を求めて、
クリミア戦争やアロー戦争への介入に反対しました。

コブデンらは、「植民地の縮小」を主張しました。
植民地を領有することは軍事費等がかさみ、
余計な歳出としてみなされたのでした。

そのため、白人移住者が多くいた
カナダなどの植民地に対しては、
現地の自治的な責任政府を間にはさんで、
支配をするようになりました。

自治領

20世紀になって、

  • 1901年、オーストラリア連邦
  • 1907年、ニュージーランド
  • 1910年、南アフリカ連邦

自治領になりました。

公式の帝国

インド周辺の

  • パンジャーブ地方
  • シンド地方
  • ビルマ
  • アフリカの黄金海岸

など
広大な植民地を直接的に支配をするようになり、
「公式の帝国」を築きました。

世界の銀行

イギリス工業製品の競争力の低下

イギリスでは1873年から大不況が発生しました。

というのも、
第2次産業革命に出遅れたイギリスの工業製品は、
後発の工業国家の保護貿易に直面して、
世界市場での競争力を失う一方で、
国内ではドイツ・アメリカ合衆国などの製品で溢れかえりました。

特に鉄鋼は、19世紀末までに
アメリカ合衆国・ドイツに追い越されました。

農業の衰退と地主階級の地位の低下

アメリカ合衆国・アルゼンチン・カナダ・オーストラリアからは、
安い農畜産品が流入しました。

これは農業の衰退と地主階級の地位低下を意味しました。

第2次ディズレーリ内閣

1874年に組閣した
第2次ディズレーリ内閣(1874年~1880年)は、
植民地拡張論を唱えて、
典型的な帝国主義政策をとりました。

スエズ運河株の買収

1875年にスエズ運河会社の株式を買収しました。

これは、下記インド帝国に向けた布石でした。

インド帝国の成立

1858年の東インド会社解散後、
イギリスはインド支配を強めていました。

1877年にインド帝国を成立させました。
そうしてヴィクトリア女王ばインド皇帝となりました。

露土戦争への介入

地中海・スエズ運河・インド帝国に至るルートの中で、
イギリスにとってロシアの南下政策は脅威でした。

そのため、露土戦争後のベルリン条約(1878年)では、
オスマン帝国からロシアの進入は防ぎつつ、
イギリスはオスマン帝国からキプロス島を獲得しました。

南アフリカ戦争

ジョゼフ・チェンバレンは植民相として、
南アフリカ戦争や植民地会議を指導し、
帝国主義政策を進めました。

19世紀以降、アフリカはどんどん欧米各国に植民地されていきます… イギリスやフランスやポルトガル、ドイツやイタリアなどの各国に分割され...

社会主義の台頭

イギリス国内の経済格差の拡大

ジェントルマン資本家

地主階級の地位の低下に伴い、
地主階級の影響力も低下しました。

ロンドンの大富豪は地主に接近を試み、
大富豪や地主はジェントルマン資本家と呼ばれるようになります。

労働者の失業

大不況により、労働者の失業が増加します。

「フェビアン協会」の設立

1884年、ウェッブ夫妻と
劇作家・評論家のバーナード・ショー、
『タイムマシン』を代表作とする
SF作家のH.G.ウェルズが中心となり、
現実主義の緩やかな社会主義実現を訴える
フェビアン協会を設立させました。

フェビアン協会の由来

この協会の名称は、
ポエニ戦争で活躍したローマの将軍ファビウスに由来します。

彼はハンニバルとの直接対決を避け、
相手をじっくり追い詰める心理戦を展開しました。

イタリア半島の統一 エトルリア人やラテン人、山地のサムニウム人 北方からのガリア人、南方ギリシアギリシア系植民市群 マグナ・グラエキアを攻略...

労働党の成立と経緯

労働代表委員会の成立

1900年に独立労働党、社会民主連盟、フェビアン協会が中心となり、マクドナルドを書記長として労働代表委員会が誕生します。

労働党への改称

労働代表委員会は1906年に労働党へ改称し、発展していきます。
しかし、マルクス主義で暴力革命を主張する社会民主連盟は参加しませんでした。

国民保険法の成立

1906年から自由党が政権を担いましtあ。自由党内閣は労働党の協力を得て、
労働争議法。養老年金法などの社会政策を次々と実行します。

1911年には、ロイド・ジョージ蔵相のもと、
健康保険と失業保険を内容とする国民保険法が成立します。

議会法の成立

増大した社会政策費を調達し、
ドイツに対抗する海軍拡張費を得るために、
富裕層への増税が計画された。

保守党が強い貴族院はこれに反対しました。

そこで、貴族院の優越を認める
議会法が成立しました。

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