治承・寿永の乱と平家の滅亡

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平清盛と安徳天皇

1180年安徳天皇が即位します。

安徳天皇とは?
安徳天皇は平清盛の娘である建礼門院徳子を母に持ち、
後白河法皇の皇子、高倉天皇を父に持つ。

平氏追討の令旨

後白河法皇の第2皇子、以仁王(もちひとおう)が、
平氏追討の令旨(りょうじ)をだしました。

令旨とは?
天皇以外の皇族が命令等を伝える文章のこと
ちなみに天皇が出す場合は宣旨という。宣旨枡もこれにちなむ。

源頼政(みなもとのよりまさ)は以仁王の令旨を諸国の武士に伝えました。

 

治承・寿永の乱

1180年から1185年までの一連の源平争乱を、歴史では年号をとって、
治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)といいます。

以仁王の挙兵

 

1180年、源頼政は平家軍と宇治で戦い敗死します。

石橋山の戦い

東国の源頼朝(みなもとのよりとも)は、
叔父・源行家(みなもとのゆきいえ)から以仁王の令旨が伝えられ、
妻・政子の父・北条時政らとともに挙兵しました。

1180年、石橋山の戦いで、
平家側の大庭景親(おおば かげちか)の軍と対立して、
一旦、真鶴へと逃れ、その船で房総半島へ渡ります。

 

富士川の戦い

千葉常胤(ちばつねたね)か上総広常(かずさのひろつね)らを味方につけて、
1180年の秋には鎌倉入りします。

その後、富士川の他たかで平家軍を破ったあと、
いろんな役所づくりをはじめるわけです。

 

砺波山の戦い(倶利伽羅峠の戦い)

 

源義仲は木曽に挙兵して、
軍を率いて日本海側を目指し、
さらに、日本海沿いにじゅらくして、1183年、倶利伽羅峠の戦い、
別名、砺波山の戦いで、平維盛(たいらのこれもり)の軍と対立します。

倶利伽羅峠、砺波山は越中(現在の富山県)
そして、そのあと源義仲は京都に入っていきます。

 

その義仲に押されるようにして、
平氏は西に逃れていきます。

 

一の谷の戦い

平氏はやがて1184年に一の谷の戦いで源範頼、源義経らに敗れます。

屋島の戦い

 

1185年に讃岐の屋島の戦いでも平氏は敗れます。

壇の浦の戦い

1185年、長門国で壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡します。

平家一門の滅亡

 

平氏は壇の浦の戦いで安徳天皇を奉じて入水します。
平家一門は滅亡しました。

 

 

 

 

コメント

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