ドイツのシュリーフェンプラン(シュリーフェン作戦)とその破綻

第一次世界大戦とロシア革命
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シュリーフェンプランとは?

中欧に位置するドイツはロシアとフランスという東西の両強国に挟まれるという構図にありました。
そこで、ロシアとフランスの2正面作戦に備えて作られた計画です。

1906年まで参謀総長の地位にあったシュリーフェンの名前から
シュリーフェンプランと呼ばれます。

内容

計画では、ベネルクス三国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)を通過して、フランスを攻める作戦です。

ロシア軍がドイツ国境にやってくるまえ1ヶ月近く必要と考え、
ドイツ軍の8個軍のうち、7個軍が西部国境に集結し、
主力はベルギーを通過してフランスに侵攻するというものでした。

パリの背後で旋回して、独仏国境近くに集中するフランス軍を
背後から包囲・殲滅するという計画でした。

作戦期間は6週間ぐらいを想定していました。

対仏戦勝利後、1個軍と予備軍だけで防衛していた東部に
移動してロシア軍を打ち破るというものでした。

シュリーフェンプランの実際

ベルギーがドイツ軍の通過許可要請を拒否して、
激しい抵抗を見せます。

8月3日ドイツ軍はベルギーに侵攻します。
ドイツの予定を2日ほど遅らせます。

8月下旬頃にはブリュッセルを占領して、
フランス国境に迫ります。

その後、フランスの第17作戦計画が主要攻勢地域と定めた、
ロレーヌ地方への攻撃も押し返しました。

その後、パリ50km手前にまで到達しました。

西部戦線は勝ったものと思い込んだ
参謀総長の小モルトケは西部戦線から
二軍団引き抜き、
東部に向かわせロシア軍の侵攻に対応させようとしました。

しかし、この頃からドイツ軍の進撃は破綻しはじめ、
補給路が伸び切って最前線と後方兵站は130kmも離れ、
兵員の食料調達すら困難になりました。

ドイツが輸送の主要手段として、期待していた
鉄道網も破壊され役に立たず、馬が主要輸送手段となりましたが、
馬の飼料すら足りていませんでした。

マルヌの奇蹟

マルヌ川に進んだドイツ軍は、
隣接する軍同士の間隔が広がりすぎたことから、
英仏軍の側面攻撃を恐れ、一時後退して、
戦線の整理をはかりました。

この予想外の後退はフランス側から「マルヌの奇蹟」と呼ばれるようになりましたが、彼らはドイツ軍を突破することはできませんでした。

 

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